クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 最近考えることの一つは神の審き。キリストが与える救いには二つの救いがある。いずれも罪からの救いであるが、一つは罪に対する審きからの救い。最後の審判において神の国、救いに入れられる救い。つまり滅びからの救い。終末における救い。もう一つは罪に支配されてこの世に生きることからの救い。つまり罪に勝利してこの世を生きるという救い。罪から自由になって生きる救い。今、この世での救い。


 神の審きが説教であまり語られないと言われて久しい。昔のことになるが、葬儀は絶好の伝道の場と語る牧師がいた。最後の審判で人は神の前に出て裁かれるが、死んでしまえば悔い改めることは出来ない。悔い改めは生きているうちにすべきもの。葬儀で“死”と直面しているときこそ、審きからの救いを語る絶好の場ということ。でもそれは信じるように脅迫しているように感じてしまい、僕は真似はできない。


 しかし神の審きからの救いは語らなければならない。語る必要があると今、感じている。というのは、僕は平安の内に死にたいと考えるから。今、僕が余命宣告されたら、僕は覚悟する。自分は神の国に招かれていると信じて死のうという覚悟である。しかし無理のない覚悟である。信仰者であるから。でも余命宣告を受けた瞬間から平安でいる自信はない。僕は余命宣告を受けたときから平安でいたいと願う。


 この自信は、神の審きからの救いの確信と結びついていると思う。問題は、神の審きのリアリティーが感じられないこと。でも我々はリアリティーがあるから信じるわけではない。見ないで信じる者は幸いと主イエスは言われた。どう神の審きリアルに受けとめるのか、それが課題。それは聖書を読むことからしか生じないと考えている。今年のクリスマスは、審きからの救いを語ろうと思っている。死を考えるとき思い出すことがある。ある高齢の信徒が「私の枕元にイエス様が現れた。私はいつ死んでもいい」と平安な気持ちでいることを語ったこと。神秘的な体験による平安である。神秘的な体験はあれば、それはそれでいいと思う。でも僕は牧師として、説教者として、み言葉から来る平安を望む。語る務めがあるから。


↑先日献堂した小松教会の外観。今週牧師会がありました。