クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の導きに生きる

 私はいつも神の導きを得て歩んでいますと言うと、「神の導きがそんなにはっきりと分かるのですか」と聞かれます。聖書には、神に導かれて歩んでいる人たちが出てきます。エジプトを出たイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれて旅をしました。ペリシテ人との戦いで、ダビデは神の導きを求め、神の指示に従って戦い、勝利しました。聖書には、主はダビデに行く先々で勝利を与えられたと書かれています。


 自分の歩みを振り返り、神さまはわたしの歩みを導いてくださったと語る方は多いと思います。そのように語る人を知っていますし、自分でもそう感じています。でも今、私は神さまの導きを求めて歩みます、歩んでいますと言うと、違和感を感じる方もおられると思います。神の導きがそんなにはっきり分かるのか、と疑問に思うからです。あるいは自分のような平凡な者を神さまが導いてくださるとは思えないのです。


 私は、これは神さまの導きだと<信じ>て、その導きに従う歩みを心がけています。人から見れば、それは思い込みに見えるかもしれません。神さまの導きには二つあると考えます。第一に、私自身がどう歩んだら良いか分からないとき、あるいは迷っているとき、神さまが、こうしなさいと導いてくださる導き。私の必要に神さまが答えて与えてくださる導きです。今一つは、私が求めてもいないし考えてもいない、神の導きというものがあります。アブラハムにしてもモーセにしても、思いがけない神の呼びかけを聞いて、神の導きをいただいて、歩んでいます。このような導きは、平凡な私たちには与えられないのでしょうか。インスピレーションという形で、私たちは神の導きを受け取っていることがあると思います。そして積極的に受け取る道があると信じます。聖書です。私たちは何のために聖書を読むのでしょうか。私は神さまの導きを受けるために読みます。そして導きを与えられたと信じて、その導きに従います。