私はサラリーマンを十年してから牧師になりました。1981年4月に三重県の鳥羽教会に赴任し、1989年4月に静岡県の御殿場教会に、2002年4月に金沢元町教会に赴任し、2017年3月に引退しました。36年牧師としての働きをしてきました。そして今、痛感することの一つは、現代の信仰者は聖書に対して受け身であるということです。日曜の礼拝説教では、牧師の説教を聞きます。週の半ばに行われる祈祷会(聖書研究祈祷会)でも、定められた聖書箇所についての牧師の説明を聞きます。料理で例えれば、いつも出された料理を食べているのです。自分で料理をつくることができないのです。
自分の身に起きた様々な出来事に対して、あるいは平凡な毎日でも、聖書の言葉によってどのように生きていったらよいのか、わからないのです。そして牧師も同じです。聖書の言葉を説教することはできても、自分の生活、牧師としての生活において、聖書の言葉によってどのように生きていったらよいのか、分からないのです。こういうと「違う」との抗議の声が上がるかもしれません。
クリスチャンの生き方について私は二種類あると思います。
- 一つは、聖書の教えをよく学んで身につけて、日々の生活については、身につけたことを土台として自分で判断していけばよいという生き方。困難な場合は人に相談することもあります。聖書的な考え方を身につけて生きるという生き方です。
- もう一つの生き方は、神さまが聖書を通して導きを与えてくださるので、その導きに従うという生き方。神さまは私を愛してくださり、私のことをすべてご存じであり、万事を益としてくださるように導かれるお方なので、その導きを受けて生きていこうという生き方。聖書の言葉によって生きるという生き方です。
多くのクリスチャン、牧師たちが前者の生き方をしているように思えます。私は後者を選びます。聖書に取り組む信仰者の姿があります。前者から後者への転換、この事に私は力を尽くしてきましたが、大きな壁があるというのが実感です。私自身は牧師として悩むとき、聖書から導きを受け取って歩んできました。神の導きを考えるとき、私が大切にしてきた大切な聖書の言葉を紹介します。
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
(箴言3:5〜6)。
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/
と書いてある」(マタイ4:4)。
イザヤ書にはこんな言葉があります。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。
(イザヤ30:21)。