昨日、孫の見守りに娘のところへ行きました。天気もよかったので双子の赤ちゃんを双子用のベビーカーに乗せて一緒に散歩をしました。僕が童謡を歌ったりすると、孫たちも何か声を出し、歌を歌っているようでした。散歩を終えて帰ったときに気づいたのですが、ひとりの赤ちゃんに鼻水が出ていて、急いで拭きました。家の中で見守りをしているときも、鼻水を拭いてあげていたのですが、散歩の時は気づきませんでした。可愛そうなことをしました。幼子に寄り添いながらも失敗です。彼女たちは、して欲しいことを口に出して言うことができず、ただしてもらうのを待っているだけの無力な存在なんだなと思わされました。
すると一つの思いが頭の中に浮かんできました。クリスチャンは罪に対して無力で罪に打ち勝つことができるのかできないのか、ということです。隠退していくつかの教会で礼拝説教の奉仕をしました。多くの場合、長老の方が司式をされ、祈祷を献げます。その祈りを聞いていると、信仰者は罪の力に対して無力であるという印象を持ってしまうことがたびたびです。クリスチャンはいまだ罪の支配下におかれているような印象を受けるのです。無力な赤ん坊のように、罪に対して自分ではどうすることもできない信仰者の姿を想像していまいます。もし自分が求道者だったら、毎週毎週罪の懺悔の祈りを聞かされていると信仰者になりたいとの気持ちが失せてしまうような気がします。
なぜなのか、と考えます。洗礼を受けて信仰者になると私たちは生まれ変わり、罪赦され、罪から清められ、罪から解き放たれて生きることができるという福音がきちんと説教されていないのかもしれません。あるいは説教されていたとしても、罪に打ち勝つことがなかなか私たちの生活において現実とならないという問題があるのかもしれません。罪に打ち勝つことができるのは、神さまの恵みによることが十分伝えられていないのかもしれません。小さなことだとしても、罪に打ち勝つことができた体験を分かち合うことがなされれば、事態は変わってくるのではないでしょうか。
聖書に親しみ、み言葉によって物事を考えるようになると自分の行動が変わってきます。考えが変われば行動も変わります。心も変わります。すると罪に打ち勝つことができるようになります。み言葉の力、み言葉を通して働かれる聖霊の力が罪に勝利させてくれます。神さまの恵みによる勝利です。
人を妬む思い、人を軽んじる思い、人を非難する思い、嘘をつくこと。み言葉が私を変えてくれました。
今日も赤ちゃんを連れて散歩に行きました。赤ちゃんが寝たので、僕は美術館にある喫茶コーナーで休憩。今日はいい日和でした。