クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

教会を支える真の中核はいつも・・・

 最近、『バルラハ~神と人を求めた芸術家』(小塩節著)を読みました。心に残る文章がありました。

「ヨーロッパ社会全般にキリスト教離れが語られている。事実、教会の礼拝出席者数も減少している。1989年秋に旧東独の終焉をひきおこしたベルリンの壁の崩壊は、ライプツィヒの聖トーマス教会とニコライ教会の青年たちによる非暴力デモがもとだった。教会に通う青年は大学入学を拒否されていたあの頃教会は熱気に包まれていた。しかし東西両ドイツが統一を果たしたあと、その熱気は急速に冷えた。もともと、教会を支える真の中核はいつも少数なのである」。

 心に残った文章は最後の部分です。「教会を支える真の中核はいつも少数なのである」。

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バルラハの本

 静岡県の御殿場教会の牧師をしていた頃、天気がよければ目の前に富士山の姿が大きく見えました。見晴らしのよいところへ行けば広い裾野をもつ雄姿を見ることができました。富士山が高いのはなぜか。広い裾野をもつからだと思いました。教会もまた裾野が広ければ高くなると考えました。つまり中核となる信徒の信仰が成熟度の大切さを思いました。成熟度が高ければ、裾野が広くなる、つまり多くの信仰者が集う教会になると考えました。そして教会には色んな信仰者が裾野を形成していることを認めるようになりました。教会に来ているすべての信仰者が成熟していることは現実的ではないと考えるようになりました。

 先日ルカ福音書を読んでいて、イエス様が後ろを振り返り、自分について来る群衆に向かって教えられた言葉に驚きました。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。


 主イエスは本気で群衆に、自分の弟子になるように教えられたのでしょうか。なぜ弟子の条件について語られたのでしょうか。イエス様のお気持ちがよく分かりません。

 イエス様は教会に属する信仰者がみなイエス様の弟子になることを求めておられるのでしょうか。私には分かりません。ただだれが教会を支える中核をなす信仰者になるのか分かりませんから、牧師は、すべての信仰者が主イエスの弟子となるように導く務めを負うと考えてきました。