前回、人生を導かれる神と題して文章を書いてきた私が、この世のことしか考えていなかったことを悔い改めるように導かれたことを書きました。神さまが私たちをどこへ導かれるのか、その目的地をはっきりを書き、自分の心に刻みたいと思いました。
エジプトにおいて奴隷状態で苦しんでいたイスラエルの民を神は救い出し、乳と蜜の流れる土地へ連れて行かれました。そこに着くまでの荒野の旅において、イスラエルの民は試練に遭いました。困難に直面し、神になお信頼するのかしないか。神の約束を信じて信頼を貫けばよかったのに、信頼しなかった民は、約束の地に入る前に死んでしまいました。
イスラエルの荒野の旅、それは私たちの人生に重なります。私たちもまた神の国、天の本国を目指してこの世という荒野を旅しています。神はこの荒野の旅を導き、私たちを約束の地、天の本国へと導かれます。人生を導かれる神の導きを考える時、天の本国へと導いてくださることを忘れるわけには行きません。ここにこそ、目的地があるからです。しかも聖書は、私たちが天の本国に迎えられることだけを伝えていません。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)。
私たちはキリストの栄光あるからだと同じ形に変えられると書かれています。私たちが復活する時、主の栄光あるからだと同じ形に変えられます。パウロはコリントの信徒への手紙一15章で次のように復活について語っています。
「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(15:52~53)。
ここでは朽ちないものに変えられるとありますが、キリストの栄光あるからだと同じ形と言うことができます。
この世という荒野を旅する信仰者の歩みのゴールは神の国ですが、私たち自身の体の復活もまたゴールなのです。このゴールを信じる者はどのような歩みをするかがヨハネの手紙一3章に書かれています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3:2~3)。
御子に似た者となることを信じる時、自分を清める真剣な歩みが始まります。この真剣な歩みはコリントの信徒への手紙二3章にも書かれています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(3:18)。
ここでは、私たちの地上の歩みが、主と同じ姿に造り変えられることを目指すこととされています。まさに最後のゴールを目指すからこそ、今、主と同じ姿になるという歩みが生まれます。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソの信徒への手紙1:4)。
この神さまのゴールを書き損ねてしまった私の心は、神の導きを信じて生きていたとしても、この世のことしか考えていなかったのです。私はこのことを悔い改め、自分を清め、主の姿に似た者となる歩みをします。主の霊の働きを祈り求めて。