クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神との交わりに生きる

 聖書が証しする信仰に生きるとは、神との交わりに生きることだと私は信じています。信じる根拠となる聖句を紹介します。

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(コリント一1:9)

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネ一1:3)

 では神との交わりに生きるとはどういうことでしょうか。そのために人格ということを考えることが大切です。交わりは人格を持つ者同士の間で成り立つからです。私は今、妻と二人暮らしです。私も、妻も人格を持っています。人格を持つ者は、何かを考え、何かを感じ、何かを意志して生きています。夫婦として共に生きていくとき、相互の人格を尊重することが必須です。夫婦は異なる人間ですから、考えること、感じること、欲することに、様々な違いがあります。そして相手が何を考え、何を感じ、何を欲するかは必ずしも分かるとは限りません。時に衝突します。しかし相手を理解し、お互いに納得する道を求めて歩みます。これが交わりに生きるということだと思います。

 夫婦の場合は、相手の反応を見ることができます。私が語る言葉、私の行動に対する妻の反応を見ることができます。それを見て、私は語り、また行動します。よい関係を築くために、相互に反応し、そこに交わりが生まれます。

 信仰者は神との交わりに生きます。神は目に見えないし、声も聞くことはできません。夫婦の場合と違って、神との交わりの場合には、神の反応が必ずしも明らかではないことです。それは難点でもあり、利点です。難点というのは、相手の反応が分かれば、応答しやすいです。相手の反応が分からなければ、どう応答していいか分かりません。利点というのは、神の反応があからさまに分かったら、辛い面があると思います。

 聖書を読むのは、神の御心を知るためです。その御心に基づいて生きるためです。聖書を読むことは信仰者の日々のお勤めではなく、神との交わりに生きるために必要なことです。聖書を読まなければ、神の御心を知ることができません。神の心を知ることがなければ、神との交わりに生きることはできません。夫婦の間でも、相手の心を知ろうとしなければ、相手の心に無関心であれば、交わりは成立しないでしょう。

 私たちが祈るのも、賛美するのも、み言葉に従うのも、神に対する働きかけです。神の反応が目に見えて明らかであるとは限りませんが、私たちは神に対して働きかけます。何らかの形で神は応答してくださると信じます。

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彼岸花 散歩道にて