クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

喉元にナイフを突きつけられたような

 今ヨハネ福音書の11章を読んでいます。ラザロの復活の物語が書かれています。以前にはそれほど気にしていなかった聖句が段々と迫ってくるようになりました。

 無牧の教会に月2回礼拝奉仕をしています。その教会の礼拝堂には講壇の両脇に小部屋があります。講壇に立つ時は左側の小部屋を通ります。その小部屋は祈祷室です。その部屋には、聖句が掲げてあります。

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)

 講壇に立つたび、小部屋を通りこの聖句を目にする時、あたかもイエス様から語りかけられているような気がしています。今日は次の節(26節)の言葉が迫ってきます。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

 「このことを信じるか」と喉元にナイフを突きつけられたような気がしました。

「いやあちょっと待ってください。
復活はキリスト教の大切な教えで、一応信じていますよ。
さらに言えば、確信をもって信じたいと思っていますよ。
でも『信じるか』とはっきり言われると、
正直どう答えるか迷ってしまいますよ。
信仰者ですからそりゃあ『信じます』と答えますよ。
でもねえ、死者の中から復活した人に出会ったことはないし、
本当かな、と思う心がないわけじゃないんです。
だからどうしたら確信をもって信じることができるのか、
模索したりするわけで。
そんな私に『信じるか』と言われると」

と口を濁したくなる自分がいないわけではありません。

 「信じるか」とのイエス様の問いに対して、私たちは人格的な応答をすることになるのだと思います。イエス様に対していい加減な答えはできません。人格的な応答は責任をもった応答となります。他の言い方をすれば、信仰の告白となります。たとい迷う心や確信がほしいというような心があったとしても、信仰の告白として「信じます」と答えるべきなのだと思いました。イエス様に問われたマリアはひるんでしまい、イエス様の問いに直接答えませんでした。

 自分に確信があるかどうかが大切なのではなく、何を信じようとしているのか、信じたとおりに生きようとすることが大事なのだと思わされました。私がイエス様だったら、信仰者に聞いてみたい質問。

  • あなたはキリストの再臨、終末の到来を信じるか
  • 今の信仰者としてのあなたは、キリストを信じる信仰のゆえに義とされていると信じるか。
  • あなたは聖なる者とされており、聖なる者として成長できると信じるか。