ブログを読んでくださっている方から、アイデンティティーという言葉がわかりにくいとの指摘がありました。日本語に訳すのがむずかしい言葉なので、そのままアイデンティティーという言葉を使っています。心理学、精神医学などでよく用いられる言葉とのことですが、だんだんと一般的にも用いられてきたように思います。
まず問いです。「クリスチャンとはどういう人なのか」。この質問を誰かにすれば、それなりに答えが返ってくると思います。ある人は、クリスチャンとは日曜日に教会の礼拝に行く人という答えをするかもしれません。別な人は、クリスチャンって聖書を読みお祈りをする人だと答えるかもしれません。クリスチャン自身も、クリスチャンとはこういう人、というイメージを持っていると思います。たとえば愛を実践する人、社会に役立つ奉仕をする人。行いが立派な人など。色々な答えが返ってくると思います。マザーテレサのように貧しい人のために奉仕をする人というようなイメージもあるかもしれません。
私自身は以前は、清く正しい人というようなイメージを持っていたように思います。また聖書を読み祈る人というイメージも持っていました。
クリスチャンのアイデンティティーを語る人はまだ少ないと思います。クリスチャンってどんな人なのか、クリスチャンも牧師もそれぞれのイメージを持っているのではないかと思います。また礼拝説教でクリスチャンの生きかたが教えられると、それによってクリスチャンのイメージが作られていきます。
そこでクリスチャンである自分自身と自分が抱くクリスチャンのイメージの違いがあるとするなら、その違いをどう受けとめるかという問題が生じます。自分がそのイメージに到達していないとクリスチャンとしての自分を喜ぶことができないかもしれません。「私は罪深いクリスチャン」「ダメなクリスチャン」と自分を卑下することがあるかもしれません。その逆に、私はクリスチャンとしていい線を行っていると自分を誇らしく思う人もいるかもしれません。
クリスチャンとはどういう人のことを言うのか。聖書はどう言っているのか。それを明確にすることは、クリスチャンにとって有益であると私は考えます。自分がどういう信仰者を目指せばいいのか、明確になります。自他共に抱くクリスチャンのイメージに左右されることがなくなります。
私の経験では、現実の自分と自分が抱くクリスチャンのイメージとの違いを感じ、自分を卑下する信仰者が多いように感じています。説教でクリスチャンの生きかたが説かれると、自分がそこに到達していないと思うと、ますます自分を卑下してしまうのです。これでは家族にもクリスチャンになることを勧めることはできません。
そこでクリスチャンとはどういう人のことをいうのか、聖書が語るクリスチャンの特徴を明らかにしたいと思っています。クリスチャンのアイデンティティーとは、クリスチャンとはどういう人のことを言うのか、その特徴を言い表したものということができます。
もう一つ知っていただきたいことは、洗礼を受けた人は、クリスチャンのアイデンティティーをもつ人へと生まれ変わるという信仰的事実です。救いの恵みとして、アイデンティティーを受け取るのです。アイデンティティーで示されるクリスチャンになる努力をするのではないのです。アイデンティティーが示すクリスチャンに生まれ変わっているのです。そしてここからクリスチャンの生活が始まります。
代表的なクリスチャンのアイデンティティーは「神の子」です。クリスチャンは努力して神の子になる必要はありません。神さまの教えを守って神さまに「神の子」と認めてもらう必要もありません。クリスチャンは神の子にされたのです。だから祈る時は、天の父よ、と呼びかけて祈ります。クリスチャンになるとは神の子にされるということです。神の子として生き始める、それが信仰生活です。
クリスチャンのアイデンティティーを知ることはうれしいことだと私は信じています。また私は喜んでいます。