クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は罪からの解放された(2)

(クリスチャンの成長(62)キリストに結ばれて- 20)

 罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。

 若いとき、私はタバコの奴隷でした。喫煙をやめることができませんでした。だから自分はタバコの奴隷だと思っていました。神さまの導きと思える出来事がおこり、喫煙をやめることができました。もう奴隷ではない、と思いました。解放は体験されます。

 最初に考えるのは、神との関わりにおける罪からの解放です。色々な罪があると思います。私が体験したことを証しとして書くことにします。思い煩い、劣等感、色々な恐れなどからの解放があります。これらは神なしに自分の力で生きていこうとするところから生まれます。

 物事を自分の力で解決しようと考えると、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと頭の中で色々な思いが堂々めぐりします。心配のために心から平安が失われます。この世の知恵は最悪の事態を想定して考えればよいと教えますが、そうも行きません。あれやこれや考えて心配し心は落ち着きません。神さまに信頼せず、自分の力で何とかしようと考える高慢の罪の結果です。

 恐れも思い煩いと似た面があります。恐れの場合は、ああなったら困るとただ一つのことを恐れます。人からどう思われるだろうか、失敗したらどうしようか、この事態に直面するのは怖い、とか人は恐れに捕らわれます。これもまた自分が神さまの愛の御手に中にあり、神さまは導いてくださると信じないで、自分の力で何とかしようとする高慢の罪の結果です。死の恐怖の奴隷。これはイエス・キリストを信じ、永遠の命を与えられることを信じることにより、私たちはこの恐怖から解放されます。

 劣等感は自分を他人と比較し、自分の劣った面が気になり、自分はダメな人間、劣った人間と、自分を卑下してしまい、この思いにとらわれてしまいます。神さまは、私を愛してくださっているから、現実の自分を受け入れることにすればよいのです。自分の劣っている面は、自分の個性と受けとめます。神さまは自分を個性あるものとして造られました。人は誰しも長所と短所があり、それらは個性と考えることができます。欠点のない人間になろうとするのは、これも高慢です。まずはありのままの自分を受け入れればいいのです。自分の劣った点がどうしてもいやなら、欠点を克服する努力をすればよいのです。

 神さまに愛されていることを喜び、神さまに信頼して歩むことを学べば、心はさまざまなとらわれから解放され、それを喜ぶことができます。

 罪から解放された証しが教会の中で分かち合われると、聞いた人たちが励まされ、教会の中に喜びが溢れていくのではないかと思います。

 

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ダリア 馬見丘陵公園にて