最近コリントの信徒への手紙一を読みながら思いめぐらしています。10章にたどり着き、あの有名な言葉を読みました。
コリント一 10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
4~12節ではパウロはイスラエルの民に言及しています。エジプトでの奴隷状態から解放され、約束された地に向かって荒野を旅したイスラエルの民です。彼らは荒野を旅する中で試練に直面し、不信仰に陥ったことをパウロは語ります。そしてイスラエルの民の失敗を反面教師とするように語り、13節となります。
つまり13節の言葉は私たちに試練に遭ったときは、信仰に立つように勧める言葉です。神に信頼し、神にゆだねることを教えています。神は真実な方であり、耐えられない試練に遭わせないと約束されています。逃れる道をも備えられていると励ましています。多くの人が試練の中で、この御言葉に支えられてきました。
イスラエルの民は、エジプトで神の大いなる御業を見たのになぜ、荒野で神に信頼しなかったのか、疑問を持ちます。神に助けを求めればよかったのにと。試練というのは非日常的な出来事であり、人間を不安と恐れの中に追いやります。
私は眼科に行き、思いがけなく手術の必要を告げられました。命に関わるものではないので、ひどい恐れ、不安に陥ることはありませんでしたが、初めての手術、入院なので不安はありました。私のために祈ってくださる方々の存在は、大きな支えとなりました。私も神さまに信頼し、神さまにゆだねることにしました。またそのように祈っています。
先日のブログにも書きましたが、私のために執刀してくださる医師、手術に関わるスタッフの医師、看護師などの方たちが私のために力を尽くしてくださることに思いが至ったとき、心が平安へと導かれました。この平安を失いたくないので、なぜ平安になったのかと考えました。
私は気づいたのです。わたしのために執刀してくださる医師、手術に関わるスタッフの医師、看護師などの方たちが私のために力を尽くしてくださることに「感謝」することの必要を。これは神への願いではありません。私の信仰から来る思いです。神に向かっての信仰告白です。これは神に信頼し、神にゆだねる思いの私の表現なのです。つまり感謝しつつ神に信頼しゆだねるのです。感謝することによって、神に信頼する信仰を表したのです。
平安とは神さまから与えられるのを祈ってただ待つのではなく、引き寄せるものでもあると思いました。試練は恵みです。