入院しているときは、祈りは切実なものとなります。祈り願ったことが聞かれてすぐに現実になることを願います。眼球内の出血が止まることは目が見えるようになるためには必要です。何としてでも出血は止まってほしい。そこで祈ります。
その時、祈りについてのイエス様の教えが思いだされました。一つは異邦人のようにくどくど祈ってはならないとの教えです。言葉数を多くしての祈りに対する注意です。もう一つは執拗(しつよう)な祈りです。一見して互いに矛盾するような教えです。まずルカ福音書にあるイエス様の教えです。
ルカ福音書11章5~9節
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません』。しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
「求めなさい。そうすれば与えられる」。有名な教えです。ここではその求め方は執拗な求めであることがわかります。執拗に祈り求めると与えられるというイエス様の教えです。もう一つの教えはマタイ福音書です。
マタイ福音書6章7~8節
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
言葉数を多くしてくどくど祈ってはいけないが、しかし執拗に祈ることは可能なのか、はたと考え込んでしまいました。そこでもう一度聖書を読み直しました。イエス様はなぜ言葉数を多くしてくどくど祈ることはいけないと言われたのか。「~すれば祈りは聞かれる」と考えること、それは神さまを動かすことを考えています。祈りを神さまを動かす手段と考えるわけです。
神さまは私たちの指示によって動かすことができるお方ではありません。私たちの祈りをいつかなえるのか、どのようにかなえるのか、それは神さまの自由です。「~すれば祈りは聞かれる」と考えること、それは高慢なのです。切羽詰まると私たちは、「こうすれば祈りはかなえられる」と言われるとそれにすがりたくなります。
では執拗な祈りはどうでしょうか。執拗に祈れば祈りはかなえられるとイエス様が教えているように見えます。執拗な祈りによって神さまを動かそうとすることになります。神さまを動かそうと執拗に祈るとしたら、それはよくないと思います。
そこで私は思いました。素直に祈り求めようと。「出血を止めてください」と繰り返し祈りました。何回も祈りました。くどくどとした祈りに見えたかもしれません。しつこい祈りだったと思います。心はひたすらに神さまに求めました。ひたすら自分の気持ちを神さまに伝えました。祈りは神さまとの交わりなのでした。祈り終わり平安が与えられました。
翌朝起きて右目を開けるとカーテンが少し透けて見えるではありませんか。右手を目の前で振ると手が動いているのがわかります。よし、これで回復していくかなと思いました。祈りが聞かれたと思いうれしくなりました。気持ちは楽になりました。
しかし翌朝カーテンは以前のように戻ってしまったような状態でした。眼球内の出血による濁りがカーテンとなって外の世界は見えませんでした。神さまは、私に忍耐を教えられていると受け止めました。