クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

一山越えたらまた山が

 19日(木)に手術をしました。翌日からは毎朝病棟での診察があります。朝の診察は、眼科の先生が交代で担当します。23日(月)の診察で、このまま出血が続くようであれば「眼を洗う必要があるかもしれませんね」との診断。毎食後止血の薬は飲んでいたのですが、残念ながら出血は止まらず、眼球の中は濁ったままです。そして次の手段があると知りました。自分の状態は予想もしていない状態ではないと知り、少しホッとしました。でも朝起きると今日は見えるかもしれないとの期待ははずれ、暗いトンネルの中を歩いているような気持ちでした。

 そして25日(水)の朝の診察は、主治医の先生で「これだけ出血が続くのなら、やはり目を洗う必要がありますね。今日の午後、洗いましょう」。

 この言葉を聞いて、自分の眼がどうなるのか、先行きがわからないもやもやした気持ちがスッキリしました。眼を洗えば次の段階に入る、つまり見えるようになるとの期待が生まれました。

 試練の時というのは、自分がこれからどうなるのかわからず見通しがなく、苦しい状態におかれる時です。恐れ、不安、思い煩い、失望などが襲ってきて心は騒ぎます。そしてなかなか出口が見えません。これまでも何度か試練に遭ってきました。

コリント一10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 試練はいつ終わるのかと思いめぐらします。一つは自分の決断によって終止符を打つことができます。あるいはしかるべき時が来て終わることもあります。さらには神さまの導きにより、終わることもあります。今回は「時が来て」、つまり朝の診察の担当が主治医の先生だったので決着がつきました。

 手術後の経過がどのようなものなのか、前もって聞いておけば平静を保てたかもしれません。でも手術前に手術後の経過を聞くというのも、聞きづらい気がしました。

 「午後、説明しますので奥さんに来てもらってください」と主治医の先生から言われ朝の診察は終わりました。午後妻に来てもらって先生の前に座ります。

「先生、眼を洗うって手術をするということですか」。
「そうです」。 

 え、また手術!?

 

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散歩道で