クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

求めなさい、そうすれば与えられる

マタイ 7:7~8
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。 

  聖書の中でもよく知られた言葉です。すばらしい約束です。いや最高の約束です。私はこの約束に励まされて色々と祈り求めました。しかし自分の願い通りにならなかったことは何度もありました。自分の願いが御心ではなかったと解釈できます。だから祈りが聞かれなかったのです。でも利己的な祈りではないのに、隣人のための祈りであるのに願い通りにならなかったことが何度もありました。するとこのイエスさまの約束の言葉をどう受けとめてよいのか分からなくなります。これが正直な気持ちです。

 聖書は文脈に沿って読むことが大切です。それは心がけていますが不十分でした。今回は文脈を大切にしました。7章の1~6節では人を裁いてはいけないとイエスさまは教えておられます。私たちには、人を裁き、自分をましな人間と思いたがる傾向があります。心の中で、ときには他人の前で人を批判し、やっつけ、優越感を得たいと思う傾向があります。これに対してイエスさまは裁くなと教えておられます。

 そして12節では、人からして欲しいことを人にしなさいと教えます。人からして欲しいことをまず人にする、これは黄金律と呼ばれる教えで、すばらしい教えです。人のために尽くすことが命じられます。ところが私たちは、それをして見返りはあるのかと考えたりします。先に人からしてもらえれば自分もすることができるが、自分から先にして相手からの反応が何もなければ、損をするではないか、などと考え、なかなか実行できない教えです。もしこれが実行できたらすばらしいとキリスト者は考えるでしょうが、実行するかどうかは別です。すばらしい教えと知っていても実行しない。それが私たちの現実ではないかと思います。

 人を裁くことと、自分がして欲しいことを人にすることには、大きなギャップがあります。そこで「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」との勧めがなされ、この求めは必ずかなえられるとイエスさまは約束されたと考えることができます。

 つまりこの文脈を考えれば、キリスト者が求めるのは自分が裁く人から、自分にして欲しいことを人にするキリスト者になることです。このことをイエスさまは教えていると理解できます。そうするとこのイエスさまの教えは何かを「求めれば与えられる」という一般的な約束を教えてはいないことになります。新共同訳聖書は、7節で新しい「見出し」を付けているのは、文脈を無視したものであり、聖書を誤解させることにつながると解釈できます。

 キリスト者といえども罪を犯します。つまり人を裁きます。そのようなキリスト者が人からして欲しいことを人にする信仰者に変えられることは、求めれば実現するとイエスさまは約束されます。自分が変えられることを求めるなら、神さまは必ず応えてくださると私は確信します。実際私は変えられてきました。

 愛の薄い人間から愛する人になること、それは求めればかなえられるとイエスさまは約束していると解釈することができます。7節以下の求める者には与えられるとの約束をどう理解するのか、腑に落ちました。

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白梅。いいですね。散歩道