クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

わたしって誰?

 コリントの信徒への手紙二のディボーションを続けています。今日は12章を読みました。心に留まった聖句があります。

12:10
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 パウロは11章でキリストを宣べ伝える中で、どんなに苦労したのかを語りました。パウロはどんなにひどい目に遭っても、辛い目に遭っても、キリストを宣べ伝えることはやめませんでした。苦しい状況の中で神の助けを得たからです。そのことを踏まえての12章10節の言葉です。これを読んで考えさせられました。

 パウロは、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの中にあっても、満足しているというのです。パウロはキリストを宣べ伝える働きをしています。そこで辛い目に遭うのです。でも満足しているのです。私たちがもしパウロの立場だったらどうでしょうか。

 私たちは無条件に自分を第一に考えます。その私たちがパウロのようにキリストを宣べ伝えているとして、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりに直面したとします。私たちはどうするのでしょうか。

 神さまの助けを信じてキリストを宣べ伝え続けようとするのか、それともしばらくは活動をやめ、次の機会を待つのか、それとも宣教をやめるのか、どれを私たちは選択するのでしょうか。どれを選択するにしろ、私たちは満足できるのでしょうか。パウロは満足していると語ります。なぜ、満足できるのでしょうか。理由は明確です。「わたしは弱いときにこそ強いからです」。言い換えると神さまが助けてくださるからです。

 では神さまが助けてくださるなら、辛い目に遭っても苦しい目に遭ってもパウロのように私たちは満足できるのでしょうか。そこで思います。私たちはいつも無条件に「私」から出発して物事を考えるのではないでしょうか。パウロにとって物事を考える出発点の私は、「キリストのために生きる私」なのです。

 私が自分はキリストを信じ、キリストのために生きると言っても、主語はあくまでも「私」なのです。私の人生の主人公は「私」なのです。しかしパウロの場合、「キリストのために生きる私」なのであってパウロの人生の主人公はキリストなのです。

 ここに究極的な自己中心があると知らされました。私たちは物事を考えるとき、「私」はどうするか、と考えます。「私」が出発点なのです。パウロは違います。「キリストのために生きる私」が出発点なのです。私たちが無条件の「私」になる時、私たちは自己中心になるのです。これは必ずしも利己的であるとは限りません。「私」は信仰者として神を愛し、隣人を愛して生きようとすれば、利己的ではなくなります。

 聖書は、信仰者である私とは、「神に造られた私」であり、「キリストに救われた私」であり、「キリストのために生きる私」であり、「神に仕える私」であり、「神の子とされた私」なのです。自分がどんな自分であるのかをわきまえることの大切さを教えられました。

 

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