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隠退牧師 holala によるブログ

信仰は学ぶもの

 エジプトで奴隷だったイスラエルの民は、その苦しみからの救いを神に向かって叫びました。神は彼らの祈りを聞かれ、モーセを指導者に選び、エジプト王との交渉をさせました。エジプト王は耳を傾けません。神は大いなる御業を行い、イスラエルの民を奴隷状態から解放しました。

 すでに神はイスラエルの民に、実り豊かな地にあなた方を連れて行くと約束していました。その地に向かう旅の中で、困難が色々起きます。すると彼らは文句を言ったのでした。

 昔、出エジプト記を読んだとき、イスラエルの民はなんて愚かなんだと思いました。エジプトの奴隷状態から神は大いなる御業を行い、解放してくれた。それならなぜ、荒野の旅で困難に遭ったとき神に信頼しないのだ、なんてイスラエルの民は愚かなんだと。

 僕は聖書をずっと読んできました。信仰とは神の約束を信じることだと学びました。そして神は約束を守る真実な方だと知りました。だからもし僕が荒野の旅をしているなら、神に信頼します。そこで思います。信じるとは、神に信頼することを学ぶことだと。初めから神に信頼できる人はいません。信仰者は神に信頼することを学ぶのだと知りました。

 エジプトから解放されたイスラエルの民は、神についてほとんど知りませんでした。奴隷状態の苦しさから救いを求めて神にむかって叫びました。神は、奴隷状態から解放してくれて、彼らはほっとしたでしょう。荒野の旅で、困難に遭うつど、なぜこうなんだ、なぜうまく行かないんだと落胆しました。あるいは、あれほど力ある業を行って自分たちを解放してくれた神は、荒野の旅の困難を起こらないようにできないのか。と失望したかもしれません。

 イスラエルの民は信仰とは神の約束に信頼することだと知りませんでした。神はすぐに約束の地にイスラエルの民を導くことをやめ、荒野で40年間生活をさせました。神に信頼することを学ばせました。イスラエルの民が約束の地に入ったのは、エジプトから解放されて40年後でした。

 昔、イスラエルの民を愚かな民と批判した私は高慢でした。私も信仰とは神の約束に信頼することだと知らず、自分なら神に信頼すると思い上がっていたのです。信仰に生きるとは、学び成長することであると教えられます。

ヤマボウシ 馬見丘陵公園