クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

公開講座に参加して

 先日の日曜日礼拝後、奈良高畑教会では「社会生活を考える公開講座」が開かれました。地域に開かれた公開講座でした。テーマは『戦争の時代にキリスト者として生きる』でした。講師は芦名定道氏です。

 戦争は次の三つに分類できると紹介されました。

①絶対平和主義
②聖戦論
③正戦論

  • 絶対平和主義は、力を行使する戦争は行わないという立場で、イエスの言葉が根拠になっているとのこと。
  • 聖戦論は、宗教的に推奨される戦争、神が与えられた義務としての戦争と戦争を理解する立場。
  • 正戦論は、戦争の正当性を考えて、これを行おうとする立場。

 私が興味深く感じたのは、ローマ帝国がキリスト教を国教としたことによる教会の変化です。それまでキリスト教は迫害されていました。国家が行う戦争に関わることはありませんでした。しかしキリスト教がローマ帝国の国教となったら、教会は戦争とは関わらざるを得なくなります。

 ローマ皇帝が何らかの理由で戦争を必要と考え、これを起こそうとするとき、平和が大切だからと戦争中止を訴えるべきなのか、それとも戦争を認めるのか。教会は決断を迫られます。絶対平和主義に立ち、戦争を否定するなら、教会はその存続を危ぶまれる状況に追い込まれることは確実です。皇帝には戦争を行う理由があるからです。

 こうして正しい戦争を行うことがあるという正戦論に教会は立つようになっていったと聞きました。皇帝によって教会は保護され、教会は神の権威に立って、皇帝に戦争の許可を与えたとのことです。

 現代は、政治と宗教が分離されている国家が多く、教会は戦争に関与することが少なくなりました。ウクライナで、ガザで、戦争は現実に行われており、終結の見通しがありません。この時代、教会そしてキリスト者としてどう生きるのか、課題として示されました。

 ロシアにしてもイスラエルにしても、それぞれ自分たちが戦争を始めた正当性を主張します。その正当性を認めるにも批判するにも、そこには歴史的な背景があるので、それを理解することは大切となります。

 戦争を放棄する憲法を持つ日本でも今、戦争のための武器を外国に売ることが政府によって進められようとしています。戦争は人ごとではありません。この時代、キリスト者としてどう生きるのか、課題として示されました。

 聖書が語る平和、キリストの平和は、敵意という隔ての中垣をキリストが壊すことによってもたらされる平和です。敵意が神の前に砕かれて成立する平和です。この平和はいわゆる戦いがない状態を示す平和とは異なります。

 私は人間が自分の正当性を主張して行う戦争に関しては、一日も早く戦争が終了するように神に祈ります。そしてキリストの平和が樹立するように、福音が世界に浸透するように祈ります。

きれいなツバキ 散歩道