宗教改革者のマルチン・ルターが語った言葉があります。
私たちの主であり師であるイエス・キリストが
「悔い改めなさい」と言われたとき、
彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを
お望みになったのである。
これは1517年10月31日、ルターがヴィッテンベルク城の城内にある教会の門扉に張り出した「95箇条の論題の第一条」の言葉です。当時の教会が贖宥状(免罪符)を販売していることに反対しての文書です。このことが発端になって宗教改革が始まったと言われています。贖宥状(免罪符)はこれを買えば罪が赦され、救いは確実とされたもので、当時の教会がお金を稼ぐために販売したと言われています。
ルターは、罪の悔い改めはキリスト者の全生涯において行われることを主張しています。キリスト者は全く罪を犯さない信仰者になることはできません。それゆえ、罪の悔い改めが生涯の最後の日まで、続くというのです。
「全生涯が悔い改め」とは、キリスト者は日々の歩みを点検し、自分の犯した罪を見出し、それを悔い改める、そういう生活をすることを意味しているのでしょうか。私は、罪の悔い改めの日々を過ごすような生活を教えているとは考えません。実はルターは、そのような悔い改めの日々の苦しさの中から、イエス・キリストを信じることによって義とされるという聖書理解を与えられたからです。
イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ったとき、この悔い改めは、罪の悔い改めより生き方の転換を意味すると考えます。つまり古い生き方から新しい生き方への転換です。キリストを信じない生き方からキリストを信じる生き方への転換です。
この悔い改めは、ある目標を目指していると私は考えます。つまり真のキリスト者を目指すのです。真のキリスト者を目指す道程で悔い改めが起きるのです。
エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神はキリスト者を、神の前で聖なる者、汚れのない者、神の子にしようと定めたとあります。それゆえ、悔い改めとは、神の前で聖なる者、汚れのない者、神の子となるという目標を目指して行われるということができます。それは罪の悔い改めなしには行われません。罪の悔い改めも、この目標を目指しているのです。聖なる者となるという目標、神の子となるという目標。