昨日、牧師の訃報が届きました。私より一回り若い先生です。私が金沢元町教会で牧会していたとき、同じ金沢で牧会していた先生です。同じ地域で10年以上、共に神に仕えた先生です。まだ若いのに残念です。ご遺族の上に慰めを祈ると同時に、ご遺族の今後の生活が神に支えられるように祈りました。
老いた者にとって死は身近なものです。同時に自分の死はまだ先のことという思いもあります。
最近、死というのは眠りにつき、永遠に目覚めないものというイメージを持ちます。眠りに就き、自分の意識がなくなるのです。私はもう何も感じないし、何も意識しないのです。だから何も問題はありません。でもこのようなイメージは、今この世に生きているから抱くイメージです。
でも死という扉をくぐって向こう側に行ったら、また別な景色があるのではないかと考えます。つまり聖書が語る希望が実現する世界です。それがどのようなものか、想像することはできません。でも聖書からイメージを描くことはできます。私の心にある一番のイメージはこれです。
テモテ二 4:6~8
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
死後のイメージの一つは、義の栄冠を授けられるというものです。死の扉をくぐって向こうへ行ったら、義の栄冠を受け取る自分がいるのです。栄冠を授けられる、光栄です。そう考えると讃美歌370番の歌詞が心に響きます。
目覚めよわが霊 心励み
力の限りに 急ぎ進め
いのちの冠は わがためにぞ
天に行く馳場に 備えらるる
死の床についたのなら、このように神から冠を授けられるイメージを心に抱いて最後の時を迎えたいと思います。聖書の言葉、讃美歌の言葉は信仰に生きるように励ましてくれます。