人は何のために生きるのでしょうか。誰しもが問う問いではないかと思います。信仰を持つ前の私は、そのためなら命を犠牲にしてもいいようなことのために生きていきたいと考えていました。その後信仰を得、さらに福音を宣べ伝えるべく牧師の道に導かれました。福音を伝え広める、それが自分に与えられた使命であると信じ、牧師の働きをしてきました。
人は何のために生きるのか、この問を自分に問うことをしなくなって久しくなりました。今、牧師の働きから退き、老いの中に生きる中で、自分は何のために生きていきたいのか、と問うてみました。自覚はしていませんが漠然とした思いとして、神の国を意識して生きているという思いがあります。
今日の戦争の状況を見るときに、讃美歌228番の御国の到来を待ち望む思いに共感します。
憎みあらそい あとを絶ちて
愛と平和は 四方にあふれ
御旨の成るは いずれの日ぞ
きたらせたまえ 主よ、御国を
讃美歌285番の4番の歌詞にも共感します。
この世を主に ささげまつり
神の国と なすためには
責めも恥も 死も滅びも
何かはあらん 主にまかせて
キリスト者とはいえ、老人に何ができるのかと思います。大したことはできません。でも神さまの前に自分にできることはしたいと考えています。私は日々、福音が今一度世界中に宣べ伝えられることを祈っています。平和のために力を尽くす人が生まれることを祈っています。
平和を実現する人々は幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイ5:9)
そしてもう一つは、説教の機会が与えられたときには福音を宣べ伝えることです。当たり前のことですが。たまに説教したとしても、それは世界の片隅の出来事です。しかし神さまの御心に添うこととして、神の国の建設に仕えることと理解し、務めを果たしたいと思っています。