クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

湧き出る伝道の思い

 今日祈祷会で、発言しながら気づいたことがあります。

 話題が終末のことに及んだのです。私は、終末を本当に信じると信仰者の生き方は変わる、という考えを持つようになっていました。それで、気づきが与えられたのです。

 実は、私は伝道者として世の人々が滅び行くのを悲しみ、何とか救いに導かなければならないという強い使命感を持てたらいいなとかつて思いました。神学校に通っていた時、一学年下の学生がそういう気持ちを吐露したのを覚えています。しかしその時、自分にはその思いはないなと思いました。それは今に至るまで変わりはありません。世の人を滅びから何とか救いたいとの強い使命感を持でずに牧師の務めを引退しました。そういう使命感を持ちたいとは思っても、簡単に持てるものではないように思います。

 昔ある牧師が、葬儀は絶好の伝道の機会だと語るのを聞きました。なぜなら、人が死んだらどうなるのか、誰もが考える時であり、聖書によれば最後の審判があると語り、人を信仰に導くチャンスだというのです。でも脅して信仰に導くようで、どうなのかと私は思いました。

 しかし伝道のチャンスだと語るその心には、人を救いたいとの思いがあることは分かります。そして人を救いたいとの思いにおいて、私は負けていると思いました。何としても人を救いたいとの思いの弱さが私にはあり、その思いを強めることができずに今日まで至りました。そして今日、分かりました。

 終末の事柄を本気で信じていないから、人を救いたいとの思いが弱いのだと。そして今思います。終末を本気で信じることは、御国を本気で信じることにつながるのだと。御国を本気で信じる時、人を何とか導きたいとの切なる思いが与えられることを。

 

 

聖霊の導きを求めて(5)

 聖霊に関して私が大切に考えている聖句があります。最初の聖句は使徒言行録1章8節です。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 この聖句は、自分が説教者として立つ以上無視できない聖句と受けとめました。「力を受けて」キリストの証人として説教をするのです。福音を証しする者として語る、それが説教者です。そのためには聖霊が降ることが必須となります。

  • 聖霊が降ることは自覚できるのか否か。
  • いつ私の身に聖霊が降ったのか。それともまだなのか。
  • さらに「力」を受けるとはどういうことなのか。

 簡単には答えが出ることではありません。でも「力を受ける」ことは自覚できる事柄です。とすれば、そのような経験はまだないか。

2番目のの聖句はヨハネ福音書7章37節以下の言葉です。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

  • 「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とはどういう意味なのか。
  • そして私は渇いていたのです。聖霊の導きに、聖霊が与えてくれる力に。

 それにしても「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とはどういうことなのでしょうか。もちろんこれは比喩です。湖などで地下水が湖底らコンコンと湧き出るイメージが重なります。

 そしてもう一つ、これは四つの福音書すべてに書かれているものです。ここではマルコ福音書1章8節を引用します。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

 これは洗礼者ヨハネの言葉です。主イエスは聖霊で洗礼をお授けになる方であるとヨハネは証しをします。

  • 聖霊による洗礼とは何か。
  • 私はいつ聖霊による洗礼を受けたのか。
  • それともまだなのか。

 私にとっては難題です。しかし先輩の牧師に以上のことについて質問する気持ちにはなりませんでした。求める答えは得られないだろうと勝手に思ったからです。こんな気持ちを抱きながら、1989年4月、次の赴任地御殿場教会に向かいました。

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聖霊の導きを求めて(4)

 1981年に鳥羽教会に赴任し、1988年に近隣の牧師2名と共に韓国に行きました。韓国のK牧師の家に宿泊し、韓国の教会生活を経験してきました。朝は早天祈祷会。昼間は教会を訪問したり、見学したり。金曜の夜は徹夜祈祷会。夜はK牧師から色々な話を聞きました。示唆に富み、考えさせられるお話をたくさん伺いました。たとえば

 日本の教会の不振の理由の一つは、牧師が聖霊を受けるように信徒を導かないことがあります。 

 

 信徒は先週の説教を忘れないで次週の礼拝に来ることができていますか。忘れているとしたら、信徒の責任でしょうか、説教者の責任でしょうか。


 K牧師は聖霊の働きと祈りを強調されました。私自身まだ聖霊の働きがよく分かっていませんでした。帰国したら聖霊の働きを求めなければならないと強く自覚しました。K牧師から聖霊が大きく、深く働くために祈りを勧められました。

 忘れられないのは祈祷院に行ったことです。都会から離れた山の中に大きな施設として祈祷院があります。宿泊でき、祈るために何日も過ごすことができます。また非常に大きな集会室があり、集会が随時開かれており、いやしを求めてくる人も少なくないようです。また横穴がいくつも掘られていて中に入って密室の祈りができるようになっていました。 

 私たちは横穴に入って祈りなさいと指示を受けました。30分か、一時間か、どちらか忘れましたが祈るように勧められました。私は15分祈ったら祈ることがなくなりました。あと何を祈っていいか分からなくなりました。情けなさを感じました。一時間も祈れないのですか。

 帰国してから礼拝堂で何回か祈りました。祈り終わると心が洗い清められたようなすがすがしい気持ちになりました。聖霊に満たされたような感じがしましたが、それは一時的な気分でしかありませんでした。そして1989年に静岡県の御殿場教会に転任しました。

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聖書が教える家族伝道

 聖書を読むと発見があります。ヨハネ福音書1章35~42節を読みました。ヨハネが歩いておられるイエスをみつめて、「見よ、神の小羊だ」と言いました。するとヨハネと一緒にいた二人の弟子がイエスに従ったこと、そしてその一人アンデレは「メシアに出会った」と兄弟のシモンに語り、シモンをイエスのもとに連れていったと書かれていました。

 私の発見、それは家族をイエス様のもとに連れて行く時、「私はメシアに出会った」と家族に語ることが必要だ、というものです。アンデレの行為は、家族伝道の模範となるのではないか、それが私の発見でした。

 アンデレは兄弟のシモンをイエス様のもとに連れて行きました。シモンはペトロのことです。アンデレは「私たちはメシアに出会った」とシモンに語りました。実際には、主イエスについてアンデレはシモンに色々語ったことと思います。なぜならアンデレはイエスのもとで一晩過ごしているので、イエス様から色々話を聞いたり、自分からも疑問をぶつけたりして、イエスがメシアであるとの確信を得たと思われます。それを兄弟に語ったのです。だからシモンは心動かされてイエス様のもとに行ったと推測されます。

 私たちも家族を礼拝に、信仰に導きたいと願います。その時、「私はメシア(キリスト)に出会った」と語ることが大切なのではないかと教えられました。

  • 自分にとってキリストがどのようなお方なのか
  • キリストを信じてなぜよかったのか。

 キリストが自分にとって救い主であるという証しが語られてこそ、家族を主イエスのもとに導くことができるのではないかと思います。家族に語ることは照れくさいかもしれません。でもキリストの証人として語るのです。そしてこんな風に家族に語ったという情報を教会の中で分かち合っていくと、「こんな風に信仰に入った人もいるのよ」と他の人の証しも伝えることができ、伝道の力になると思います。

 10年以上前に、私はブログを始めました。礼拝の説教や、牧師として考えたり感じたりしたことを書いてきました。私の妹がブログを見て、色々読んでくれたようです。そして礼拝に行くようになりました。私は金沢におり、妹は東京にいました。私の妻は名古屋に住んでいる兄に証しの手紙を書いて礼拝に誘ったことがあります。

 必ず成功するとは限りませんが、証しをするという努力が伝道には必要であることを聖書から教えられました。伝道が困難と言われていますが、どのように伝道するのか、私たちは聖書から教えられる必要があるように思います。そしてそこから伝道の道が開かれるように思います。

 

アイデンティティーに生きる

  「あなたは何者か」という神さまの問いかけに対する私の答えは、「私のアイデンティティーは、キリスト者、福音宣教者、キリストの証人」です。具体的にどのようにアイデンティティーに生きているのか、自分を振り返りながら確認しました。

 神さまに対して、自分がキリスト者に導かれたことの感謝の応答としてしていることがあります。私にとってはそれがキリスト者として生きることであり、キリストを証しすることであると考えています。

 ヨハネ福音書に

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。

 キリストは人となられた神の言です。聖書の言葉は神の言葉であり、この言葉によって生きることはキリストによって生きることであり、キリストを証しすることになると私は考えています。

 私は御言葉によって歩みます。物事を考える土台を聖書におきます。人間の常識、人間の知恵、人間の考えや経験ではなく、御言葉を生きるための土台とします。そのために日々聖書に親しみ、思いめぐらし、神さまの導きを聞いて歩むようにしています。

 御言葉によって生きるために私がしていることはデボーションと呼ばれています。聖書をただ読むだけではなく、思いめぐらし、神の導きを聴き取り、その導きに従うという一連の行動を含みます。エジプトを脱出し、荒野を旅したイスラエルの民が毎日天から降ってくるマナを食べたように、毎日(できるだけ)デボーションを行っています。

 デボーションは、聖書を学び聖書の教えを身につけて物事に処するという生き方とは違います。デボーションをする前提として、神さまは聖書を通して語りかけてくださると信じます。そして聖書を思いめぐらしながら神さまの語りかけに聞くという、神さまとの交わりに生きることを目指します。神さまの言葉として受けとめることができるのは、聖霊の働きであり、聖霊の導きを求めて祈ります。

 私がデボーションを学んだのは、50歳になる前で、それ以来20年あまりデボーションを続けています。このデボーションは私の説教準備にも大きな力となりました。

 私は自分のデボーションを御言葉に生きるための提案というサイトで公開し、キリスト者としての証しとしています。またこれを読まれた方がデボーションを始められることを日々の祈りの課題としています。 また引退してから依頼を受けて説教を行い、福音宣教者としての働きを継続しています。そして語った説教を引退牧師holalaの説教というサイトで公開し、福音宣教者としての働きを続けています。

 隠退後に説教できるのは、神さまの導き以外のなにものでもありません。神さま、感謝します。

 

 

 

アイデンティティーを問う神

ヨハネ福音書1章19~28節を読みました。

<聖書から>

19~20節にこう書かれています。

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。

 他の福音書を読めば、沢山の人がヨハネのもとに来て洗礼を受けたことが分かります。ヨハネのことはエルサレムでも評判になっていました。そこでエルサレムのユダヤ人たちが人々をヨハネのもとに遣わしたのです。
 ヨハネは自分は「エリヤ」でもないし、「あの預言者でもない」と答えます。そこで遣わされた人たちはヨハネに、

「それでは一体、だれなのです。あなたは自分を何だと言うのですか」

と言いました。するとヨハネは

「私は荒れ野で叫ぶ声である」

と答えました。人々はヨハネに「あなたは何者なのか」と尋ね。ヨハネは、自分は「荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。ヨハネが何者か、ヨハネのアイデンティティーが問題にされたのでした。

 そして私は別の聖書箇所を思い出しました。イエス様が弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた場面です。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエス様はご自分が何者であるかを弟子たちに確認します。ペトロは見事にイエス様が誰なのか、イエス様のアイデンティティーを告白しました。

<アイデンティティー>

 聖書はアイデンティティーの重要性を語っています。今日の聖書を通して神さまは私に、「あなたは何者なのか」と語りかけておられると受けとめました。私は何者なのか。私は何者として今、生きているのか。

 私が出した答えは、私はキリスト者、私は福音宣教者、私はキリストを証しする者(キリストの証人)です。私はこのアイデンティティーを与えられていることをうれしく思うと同時に、これからもこのアイデンティティーに誠実に生きていきたいと確認しました。

 

 

実験を楽しむ

 わたしは今妻と二人暮らしです。できるだけ家事を分担したいと考えています。今のところ、料理の面で妻の負担を軽くするように努めています。朝食は、野菜スープとサラダ、目玉焼きをわたしが作ります。サラダとスープは4回をまとめて作ります。毎朝同じメニューです。夕食は週に一回はスパイスカレーを作ります。昼食にはパスタなど作ります。いずれも単品料理なので作りやすいです。

 今、台所周りをきれいにしたいと考えています。すると汚れをどう落とすのかが問題となります。毎朝アルミの雪平鍋で冷凍した野菜スープを温めますが、作り終わった後よく見るとIHヒーターの天板に汚れがつくのです。そして鍋の底を見るとうす茶色の焦げみたいなものがあり、これが悪さをしているのだと推測します。

 僕は男だからでしょうか、汚れを落とすとはどういうことか、本を読みます。掃除は後出しじゃんけんと同じで、必ず勝つことができる、つまり汚れの種類を見分ければ、それに適した洗剤を使えば汚れは落ちる、などと本で読みます。洗剤にはどんな種類があり、どのような汚れがあるのかなどと関心を広げていくと際限がありません。

 料理も家事(ここでは台所の汚れ落とし、焦げ落とし)も実験だと考えるようになり、実験を楽しむこの頃です。アルミ鍋の底の薄茶色の焦げは、ジフというクリームクレンザーで見事に落ちました。研磨剤で焦げを削り取ったことになります。

 現役で働いていたときは、家事はすべて妻任せでした。ですから今は家事が新鮮に見えます。聖書の勉強もしていますが、家事も充実感を私に与えてくれて感謝です。学んだ知識を役立てる、私には楽しいです。