クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

まだまだ生きるつもり

 それなりに年齢を重ね、体も年齢相応になっています。血圧が少し高く降圧剤を服用しています。先月中旬、唇にしびれを感じました。医師にも相談して薬の服用を中断しています。なぜしびれが出るのか原因は分かりませんが、医師は血液検査を提案しました。結果として特に問題はなかったのですが、以前の検査と比較して、血液の量が少なくなっているというのです。

  • 作られる血液の量が少なくなったのか、
  • 体内で出血があるのか、
  • 何らかのかたちで血液が壊れているのか、

「このどれかだと思います。血便は出ていますか」「出ていないと思います」。「では念のため検便をしましょう。容器を受け取り説明を聞いて下さい」とのことで、診察室を出て、看護師の方から説明を受けることになりましたが、いきなり「ああ、大腸ガンの検査ですね」と言われ、「えっ、そうなの、はっきり言われちゃったな」と少し複雑な思いになりました。

 今日はその検査結果を聞きに行きました。問題はないだろうと思っていましたが、何を言われても不思議ではありません。いささか緊張して診察室に入りました。検査結果の紙が目の前に置いてあり、マイナスの記号があったので大丈夫だなと思いました。そして「検査結果は問題はありません」と医師から言われほっとしました。

 考えてみると、「残念ながら詳細な検査が必要かもしれません」と言われても不思議ではなく、そう言われたら自分はどうするのだろうかと思いました。検査をするならするで、それなりに気持ちを切り替えるのでしょうが、そんな切り替えはしたくありません。そんな自分を見ていると、まだまだ生きるつもりでいるようです。

 私は自分の死に備え、聖書を黙想しています。今度はどの句を黙想しようか考えていましたが、今、詩編90編1~3節を黙想することに決めました。

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。

 

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キンシバイ(金糸梅)散歩道にて

 

イエスの恵み(2) 罪赦されて

 神が存在することを証明する絶対的な証拠・確かさというものはないと思います。それなら人は神の存在の確かさをどのように覚えるのでしょうか。人生の中で神の存在を実感する場面がいくつかあると思います。その実感が神の存在の確かさを私たちに覚えさせるのでしょうか。

 私に神の存在の確かさを覚えさせるのは、自分の罪です。自分の罪を自覚させられたこと、これは何よりも神の存在の確かさだと思っています。どんなに神がいるとは思えなくても、自分が罪を犯したとの自覚は消すことはできません。自分が罪人であることは紛れもない事実なのです。

 以前このブログに書きましたが、受洗を決心するきっかけとなった出来事がありました。その頃私はサラリーマンでした。ある時仕事で講演会に行きました。講演を聞いている途中で咳き込みました。そこでハンカチを口に当て、咳が講演の妨げとならないようにしました。咳がおさまり、ハンカチを口から話したとき、血がべったりとついていました。これを見て、私は頭が真っ白になりました。居ても立ってもいられない状態になり、外に出ました。心はうつろな状態で街を歩きました。神さまに裁かれても仕方がない、死んでも仕方がない、との思いで心がいっぱいになりました

 その頃、私は教会の礼拝には行っていました。そして喫煙が体によくないことを知りながら続けていました。やめたくてもやめられなかったのです。タバコの奴隷です。神さまからいただいた体を傷つけている、神さまの審きを受けても仕方がない、もしかしたら重病の前触れかも知れない、などと感じました。でも怖くて、病院には行きませんでした。自分は罪人であるとの自覚、これが私にとって、神が存在する証拠です。

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。ヨハネ16:8

 聖書が示すように聖霊の働きにより、罪を自覚させられ、私は洗礼へと導かれました。罪の赦しを得られることは本当に幸いなことです。イエス様が十字架で死を遂げられたこと、それは私の救いのための出来事でした。罪が赦され、神と和解し、神との間に平和を得て生きることが許される、ありがたいことです。しかも神に愛される神の子として生きることが許される、本当に感謝なイエス様の恵みです。

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キイチゴ 散歩道にて

 

 

聖霊の導きを求めて(12)

 無知な者が限られた情報をもとにして、大それた目的を目指すとどうなるのでしょうか。無知なものとは私のことで、大それた目的とは、聖霊の交わりに生きることがどういうことかを知ることです。

 私たちの礼拝の最後になされる祝祷の言葉は聖書からの引用です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリント二13:13) 

  「聖霊の交わり」が何を意味しているのか、牧師が教えるのを聞いたことがありません。私も教えたことがありません。若いときの私は教えられなかったからです。

 聖霊を注がれる、聖霊に満たされる、聖霊が降る、聖霊を受けるなど、いろいろな表現が聖書に出てきますが、一体何を意味しているのでしょうか。それを知りたかったのです。聖霊を信じるなら、それを体験したいと思うのは自然だと思います。これは大それた目的と私は思います。

 限られた情報とは、聖霊に関する情報です。キリスト教書店に行くと聖霊に関して二種類の本がありました。ペンテコステ派系の聖霊理解の本と、福音派系の聖霊理解の本です。それぞれに翻訳された本が多かったように思います。残念ながら私が属する日本基督教団の出版局からは聖霊に関する本はほとんどなかったと思います。教理を教える神学書には聖霊に関する記述がありますが、正直、私の求めには役に立ちませんでした。

 そして鍵となるのが「聖霊のバプテスマ」です。4つの福音書に、イエス様は聖霊による洗礼(バプテスマ)を授ける方と書かれています。これをどう理解したらよいのか、です。そして私はどうなの、です。ペンテコステ派では、水の洗礼と聖霊による洗礼を区別し、聖霊による洗礼は、信仰者が後になって経験するものと理解します。そして聖霊による洗礼には異言が伴うと教えられます。異言は聖霊のバプテスマのしるしという理解です。福音派は、そして日本基督教団の諸教会では、水の洗礼と聖霊による洗礼を区別しません。水の洗礼を受けるとき、聖霊による洗礼も受けると教えられます。

 聖霊に関する本は、それぞれの立場から聖書を引用して、自分たちの理解を説明しています。初心者はどちらを読んでも、なるほどと思ってしまいます。というか初心者は、その違いをはっきりとわきまえることもできないのです。無知な私はまさに初心者でした。

 丹羽牧師の体験は、ペンテコステ派の理解そのものです。聖霊に対する「渇き」を満たしたいなら、聖霊のバプテスマを受ける必要があると初心者が考えるのはもっともです。

 なお聖書には、聖霊のバプテスマが具体的に行われた場面が描かれています。あのペンテコステの出来事です。祈っている弟子たちの上に聖霊が降り、聖霊が語らせるままに弟子たちが語り出したという出来事、あれは弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた出来事です。なぜそう言えるのでしょうか。使徒言行録1章で、天に上げられる直前のイエス様がこう言われました。

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。使徒言行録1章5節

「あなたがたは間もなく」。イエスが天に昇られて10日後、弟子たちの上に聖霊がくだりましたが、これは聖霊のバプテスマに他なりません。

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聖霊の導きを求めて(11)

 御殿場教会に赴任して4~5年していろいろな問題、課題に直面し、ある意味、煮詰まってきました。47歳くらいの頃でしょうか。そして聖霊信仰に取り組むときが来たように思いました。前にも述べましたが、久遠キリスト教会の丹羽鋹之(としゆき)牧師の体験は私の心に深く残っています。

正直言って自分の中には、まざまざとした生きたキリストの経験がない。即ち聖霊の経験がない。”なんぢ尚ほ一つを欠く”という、この求めが切になってまいりました。 

  この丹羽牧師の求めに当時の私は共感しました。「渇きです」。そして神が生きて働かれる方であるとの確信を得た私は、聖霊との生きた交わりを欲しました。牧師としての私が決して忘れることが出来ない聖句があります。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1章8節)。

 ここには「力を受ける」とあります。これは体験できることです。「力を受ける」という経験を自分はしたのか? しているようには思えません。神が生きて働かれる方であることを知ったとき、確信をもって説教できるようになりました。でもそれは「力を受けた」という体験とは違うように思いました。

 もう一つの聖句は、ペトロが捕らえられ、イエスを宣べ伝えるなと脅され、釈放されて仲間のところに戻って来たときのことです。使徒言行録4章。彼は仲間と共に祈るのです。

主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

祈りが終わると、

一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語りだした。牧師・説教者として憧れます。大胆に確信をもって語る、これができずして説教者と言えるのでしょうか。ある人たちは、このような出来事は初代の教会の時だけに起きたことであり、今日起きることではないと主張されます。意見は色々あります。

 丹羽牧師が聖霊を求めて祈られたように、私も祈り始めました。丹羽牧師は昭和26年の初頭から祈り始め、6月も終わろうとするときに、突然、聖霊体験をされました。異言を語ったのです。彼は自分のこの経験を聖霊のバプテスマと呼んでいます。この時から丹羽牧師は大胆に御言葉の説き明かしをし始めました。

 私も祈り始めました。でも続かなかったのです。情けない!3ヶ月ほど祈りましたが続きませんでした。続かなかったのは私の忍耐のなさかもしれません。求める思いが弱かったのかもしれません。でも今思うと、神さまは別な道を歩むように願われたのかもしれません。でもそこから、私の悪あがきが始まりました。

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イエスの恵み(1) かけがえのない妻

 奈良高畑教会の、今日の夜の祈祷会では詩編75を読みました。私は10節の言葉に心がひかれました。

わたしはとこしえにこのことを語り継ぎ/ヤコブの神にほめ歌をささげます。

 「自分は何を語り継ぐのかと思いめぐらしていました」と私は発言しました。しばらくして親しい人に伝道をする場合は「自分が受けた神の恵みを伝えたらよいのでは」と発言しました。すると牧師が思い出したと言って、讃美歌502番に皆に紹介してくれました。この讃美歌は私も好きな讃美歌です。

いともかしこそ イエスの恵み
罪に死にたる 身をも生かし
・・・

 ああそうか、神の恵みを語り継ぐ、これは大事なことだと思いました。自分が受け取ったイエス様の恵み(神さまの恵み)をこの機会に数え上げることは神さまの導きだと受けとめました。証しとしてブログに書いてみたいと思いました。

 私は見合いで結婚しました。神さまが出会わせてくださったと考えています。妻との出会いは、私の人生にとってとても大きな恵みです。私の妻は、いつも私を励ます言葉を語ってくれます。それが本当に感謝です。私が落ち込みそうなとき、私とは別な視点から私を励ます言葉を語ってくれます。

 たとえば私は信仰を持ったのは30歳直前、4年後に牧師になりました。私が

「もし自分が若いときから教会に行っていたら、もっと聖書を知っているのに」

とちょっと愚痴を言うと、

「小さい頃から知っていたら、ある意味、聖書に対して先入観を持つことになる。しかし、まっさらな心で聖書を読める、先入観なしに聖書を読める、それっていいことじゃない」。

と励ましてくれました。これはほんの一例です。かけがえのない妻です。神さまの恵みです。

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アザミ。散歩道にて

 

 

聖霊の導きを求めて(10)

 今、魂の渇きのいやし、聖霊の満たし、聖霊による力を求めて歩んできた自分の道を振り返ると、神さまが導いてくださったことに気付かされました。神学校を卒業して8年間三重県の鳥羽教会に仕えました。この時は、まだ聖書に対する理解が乏しく、説教と信仰とは何かを学ぶことで精一杯だったように思います。

 私はクリスチャン家庭に生まれたわけではなく、聖書を知らずに育ちました。洗礼を受けてまもなく神学校に行きました。しかも仕事をしながら夜間の神学校です。聖書を読む時間を十分にとることができないまま神学校を卒業し、牧会の現場に出ました。大学卒業後、社会人生活10年を送っての人生の再出発でした。

 「聖霊」との関わりが大切なことは、地区の中高生キャンプの後、他教会のCS教師からいただいた手紙と本、ペンテコステ派からの教会員の転入会、韓国教会の訪問により知らされていましたが、このことに取り組む余裕はありませんでした。説教と基礎的な学びに時間が取られました。

 1989年静岡県の御殿場教会に転任し、5年経った1994年47歳の時でした。思いがけない出来事が起きました。教会の中でちょっとした問題が起きたのです。日記にはこう書いてあります。

「これはサタンの働きだと思って神にひたすら祈った。繰り返し、サタンの業なら神が打ち砕いて下さるようにと必死に祈った」。

 問題が起きた翌日用事があり、御殿場から熱海まで出かけました。往復の車中でもひたすら祈ったのです。そして夜、電話があり、祈りが聞かれたことが分かりました。日記には

「神が祈りを聞いて下さったという実感を与えられた。これは不思議な経験であり、素直に神を信じようとの思いを与えられる」。

 この日から「神を求めて」と題するノートを作り、神を求める歩みが始まりました。でもなぜこんなノートをつくったのかは思い出せません。でも大切な記録となりました。最初に祈りが書かれています。

父なる神さま、あなたが祈りを聞いてくださったことを覚え感謝します。あなたは生ける神であり、全能の神であることを知らされました。あなたをたたえます。あなたに私の歩む道をすべておゆだねします。御心のままに用いてくださるように祈ります。私の心をあなたが支配され、喜んであなたに従う者とならせてください。高慢な心、おごり高ぶる思いを打ち砕き、あなたに栄光を帰すことのできる僕(しもべ)とならせてください。私の心を探り、罪を知らせてください。罪を放棄し、御子イエスの血によって潔められることを願います。導いてください。

 神は生きて働かれる神、スタート地点に立ちました。

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ペンテコステの説教

 昨日はG教会での説教奉仕でした。ペンテコステ礼拝なので使徒言行録から説教しました。ペンテコステの説教は、毎年のことで「その話聞いたことがある」と言われるような説教はしたくないので、使徒言行録2章29~36をもとに説教しました。

 私が伝えたことはただ一つ、信仰者の内に聖霊なる神さまはおられるということでした。神さまは新しい神の民を創造するためにイエス・キリストを信じる人たちの心に聖霊を送り、聖霊によって導かれる信仰生活を備えてくださったと説教しました。

 私の感覚では、自分の内に聖霊がおられることを信じている人は少ないように思います。隠退していくつかの教会で説教奉仕をしました。多くの場合、長老の方たちが礼拝の祈りをされますが、その祈りを聞いていると、「聖霊を与えてください」「聖霊を注いでください」というような祈りを多く聞きました。それで「あなたの内に聖霊がおられます」、これが今日のメッセージですと伝えました。

 聖霊が自分の内におられると実感できないから、信じられないと考えるのは間違いですと念を押しました。そもそも神さまを信じるのは、神さまの存在を実感したから信じたのですか。そうではないでしょ。神さまを信じる生活を続ける中で、やっぱり神さまはおられるなと実感するのではないですか。信じれば実感は後からついて来ます。是非、聖霊があなたの内におられることを信じてください、と語り、最後に聖句を紹介しました。

「わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」。
(ヨハネ14:16以下)

 

「知らないのですか。あなたがたの体は、
神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。
(コリント一6:19) 

 

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。
(使徒言行録2:38)


聖霊なる神さまは、あなたの内におられます。