クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

赤ちゃんにも人格が

 また幼児虐待のニュースです。二歳の女児が暴行を受け、食べ物を与えられずに衰弱死しました。こんなことが起きてよいのかと思わされます。幼児は無力です。自分に対する仕打ちになすすべもありません。

 以前、私は教誨師の働きをしていました。ある時、教誨師の研修会に行きました。その時、女性の弁護士の講演を聞きました。彼女は虐待で苦しんでいる少年少女のためにシェルター(避難場所)をつくり、彼らを保護し、自立に向けて支える働きをされています。その講演の中で「赤ちゃんには人格がある」と話されました。正直、私は驚きました。赤ちゃんに人格?

 赤ちゃんは自分の力では生きていけない存在です。大人からすれば、赤ちゃんは何かをしてあげる存在、大人の助けなしには生きていけない無力な存在です。関係性で言えば、大人は上に立ち、赤ちゃんは下に立つものと考えてしまいがちです。なので私は赤ちゃんには人格があると考えたこともありませんでした。講師の話は新鮮に響きました

 相手の人格を認めることは、自分が相手と対等な関係にあると認めるということです。赤ちゃんは無力で自分の力だけでは生きていけない存在です。誰かの助けなしには生きていけません。そんな赤ちゃんが自分と対等の立場にあると考えるなんて、思っても見なかったことでした。無力、それは赤ちゃんの特質です。無力だからといって人格を持たないと決めつけてはいけない、と教えられました。

 私にはもうじき2歳になる双子の孫がいます。彼らを見ていると、人格があることがよく分かります。自己主張をします。双子ですが性格が違い、行動パターンも違います。まだ言葉は自由に話すことはできず、自分の思いを明確に伝えることはできませんが、それでも伝えたい思いを表現しています。その思いをきちんと受けとめる、それが幼児の人格を重んじることだと思っています。二人の相手をよくする妻は、二人の人格を見て向き合っています。そしてその交わりの楽しさを私に話してくれます。

 赤ちゃんにも人格がある、このことが理解されれば、幼児虐待も少なくなるのではないかと思います。

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うぐいすの鳴き声が聞こえてきました

 

聖霊の導きを求めて(9)

 使徒信条に「われは聖霊を信ず」とあります。一体何を信じるのでしょうか。聖霊なる神さまがわたしの内におられる、このことを信じることが一番大切だと私は考えています。しかも大いに強調しなければならないと思います。

 というのは、人はしばしば間違った思考にはまります。つまり、聖霊があなたの内におられるのですよ、と言われても、実感できないので、聖霊が自分の内にいるとは思えない、という思考に陥ってしまいます。つまり信仰を働かせていないのです。

 『使徒信条の小さな解説』(近藤勝彦、日本伝道出版)において「われは聖霊を信ず」の解説は、3つの項目からなっています。(1)聖霊の神性、(2)実を結ぶ力、(3)いのちを与える聖霊、です。(2)において、

「聖霊は私たちに最も身近にあり、私たちの内にあって働かれる神です」

と書かれています。私たちの内におられることがさらりと書かれています。しかし、(2)(3)においては、聖霊の働きがもっぱら書かれています。

 この本でも聖霊の働きが聖書に基づきしっかりと述べられています。しかし聖霊の働きが私たちにおいて現れないと、私たちは聖霊が自分を通して働いてくださるという確信に欠け、働いてくださることが信じられなくなるのです。そして聖霊はわからないものとしてしまうのです。使徒信条の「われは聖霊を信ず」は唱えるだけになってしまうのです。

 私たちは信仰者になっても肉の性質を持っているので信仰を働かせることが困難です。すると聖霊の働きが自分の身に現れないのです。だから実感できないことは信じられない、となります。信じたくても信じられないという蟻地獄にはまってしまうのです。ここからどうしたら脱出できるのか教えてくれる人がいません。それで多くの人にとって、聖霊は謎なのです。場合によっては、聖霊を語る牧師にとっても謎のことがあります。聖霊について語ることは出来ても聖霊の働きはわからないのです。少なくとも、私にとっては謎でした。

 私たちが陥りやすい思考のパターン

  1. 聖書の言葉を真理と信じる。
  2. 自分の歩みの中で実感できない。
  3. 真理と信じたが真理かどうか分からなくなる。

 信仰を働かせる正しい思考パターン

  1. 聖書の言葉を真理と信じる。
  2. 真理と信じ、これを前提として歩む。
  3. 真理であるとの実感が伴うようになる。

聖霊が私たちの内におられることを示す聖句

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ローマの信徒への手紙8章9節

 

 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
ローマの信徒への手紙8章11節

 

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
コリントの信徒への手紙一6章19節

 

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聖霊の導きを求めて(8)

 前回、丹羽鋹之(としゆき)牧師の本からその一部を紹介しました。この本は1983年に出版されました。私は既に牧師としての働きをしていました。なぜ、この本を古本で購入したのか、今は思い出すことはできません。確かなことは、丹羽牧師の心に共感を覚えたことです。「正直言って自分の中には、まざまざとした生きたキリストの経験がない。即ち聖霊の経験がない。”なんぢ尚ほ一つを欠く”という、この求めが切になってまいりました」とありましたが、この言葉に深い共感を覚えました。

 「かつて神の愛が理屈であった。聖霊も理屈であった。しかしそれから神の愛がこの胸にこたえ、この身にこたえる事実となり、ありがたく、うれしく、故に強く力を感ずるようになりました」。この言葉にも共感を覚えました。

 この体験を通して、丹羽牧師は力を与えられたと思います。次の聖句が丹羽牧師の身に実現したと私は思います。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1章8節)。

また次のイエスの言葉も実現したのだと思います。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
(ヨハネ7章37~38節)

 私は丹羽牧師とは、直接お会いして話したことはありません。魂の渇きのいやしを求める姿勢には共感を覚えます。1909年生まれで1978年で亡くなられています。私が最初に出会った、聖霊を飢え渇くように求めた方です。上に引用した二つの聖句は、私にとっても大切な聖句です。わが身に実現して欲しいことを語っている聖句です。

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聖霊の導きを求めて(7)

 私が求道者時代に、「行ってみたら」と言われて行った教会、異言の祈りがなされ、恐れを感じて私が逃げ出した教会、久遠キリスト教会の丹羽鋹之(としゆき)牧師の文章です。天城の集会でのお話しですが、開会の祈祷会では、異言での祈りがなされたようです。以下『砕けたる霊魂の祈り』(丹羽鋹之著、憩のみぎわ社)からの引用です。

聖霊経験を境として

 今回はじめてこの天城の集会においでになりました兄弟姉妹、また、まだ教会へも行ったことのない方々もいくらかいらっしゃると思いますが、先ほどの開会の祈祷会におきまして、どうであったでありましょう。そういう方々の中に何かつまずきはなかったでしょうか。あるいは何か疑問を持たれたのではないでしょうか。あるいは今まで信仰してきたその生活に、何か揺さぶりをかけられたという、そんな思いをされたのではなかったでしょうか。いろいろな思いがあったと思います。

 私たちの集まりは、はじめからこのような集まりではありませんでした。私の信仰の生涯におきまして、昭和のはじめから今日に至る信仰の生涯におきまして、昭和26年の6月25日を境といたしまして、私の信仰の歩みが大きく変えられました。従って私たちの集まりがその時から変化を来たしたわけであります。それ以前の集会は無教会的な集会でありますから、聖書研究、聖書講義一辺倒でありました。騒がしい祈り、感情をむき出しにした、あらわにした、そういう集まり方、それは私たちの集会には全く見られないところでした。今でも無教会の集まりはそうでありますが、私たちの集まりも、私たちというよりも私のあり方もまさにその通りでございました。

 第一、26年以前、戦中あるいは終戦直後の私が、先ほどのような集会にもし出たら、大きな反発を感じ、みんなが燃えれば燃えるほど、私は冷えていったに違いありません。そういう経験もしたことがあるのです。だからそういう人があったんじゃないかと思うのであります。あるはずだと思うのであります。

 しかしそうした中で、私自身の信仰の歩みにおいて、あるいは集会のあり方において、非常な空白、行き詰まり、重荷、苦しみが起こり始めました。そうして私は自分の信仰の歩み、あるいは集会のあり方になお一つを欠いているものがある、ということを気付かされてまいりました。それは、理論においては、あるいは理屈においてはよく分かったつもりであっても、自分にはなまなましい聖霊の生きた経験が無いのではないかということです。今までは、あまりに聖霊を口にし、聖霊、聖霊というそうしたあり方に対して非常に反発を感じてきた。もう信仰のはじめから私たちは聖霊に導かれ、受けているんだ。今さら聖霊、聖霊と騒ぐのはどういうことなのか。そういう思いでありました。しかし自分の様々な問題に直面して、そうして自分の弱さを感じてきた時に、そういった事は言っておられなくなった。正直言って自分の中には、まざまざとした生きたキリストの経験がない。即ち聖霊の経験がない。”なんぢ尚ほ一つを欠く”という、この求めが切になってまいりました。それが26年のはじめ頃からであります。それで祈り求めたのであります。そして26年6月の25日、夜10時半頃から祈り始めました。およそ12時頃に及んだ時、即ち25日から26日にかけての頃、俄然わたしのうちに聖霊が具体的に働き始めて下さったのであります。

 それから私の信仰が変わりました。かつて神の愛が理屈であった。聖霊も理屈であった。しかしそれから神の愛がこの胸にこたえ、この身にこたえる事実となり、ありがたく、うれしく、故に強く力を感ずるようになりました。一面には、そうした私の変わり方に反発をもって、この小さな集まりを去る者も起こりました。また、ごく身近な者の中からも起こりました。しかし事実をどうすることも出来ない。そしてさっき申しましたように自分自身、自分はたしかに変わった。けれども他の者に対しての思いやりと言いますか、よく言えば思いやり、悪く言えば自分をかばうかばい、気がね、これをあらわにあらわしたらこの集会はどうなってしまうだろうか--というようなところから、私の消極的ではありますが聖霊にある歩みが始まったわけであります。

私が求道者の時、それは1972年頃だと思います。丹羽牧師が聖霊体験をしたのは昭和26年、1951年となります。

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伝道に必要なもの

 伝道というと教会では、様々な集会を計画し未信者の人を教会に集めることを計画します。未信者の人が教会に来るきっかけはあまりないので集会を計画することは大切なことです。ここでは伝道とは、ひとりの人を信仰に導くことと定義します。つまりイエス・キリストを信じるように導くことを指します。すると伝道は伝道集会だけでは不十分であることがわかります。伝道が成功するためには、以下の三つの段階を経る必要があります。

  1. 未信者の人が教会に来ること
  2. 未信者の人が教会の礼拝、集会につながること
  3. 未信者の人が罪を悔い改め、イエスを救い主と告白するようになること

 教会が集会を計画し、教会員が家族知人を誘ったり、チラシを配ったりしてそれを見ることによって、未信者の人が集会に来ます。

 次の課題は、集会に来た人が教会の礼拝に続けて来ることです。集会を計画した時から教会は祈って準備し、集会に来た人が続けて礼拝に来るように祈ります。しかし集会には来ても続けて礼拝に来る人が少ないのが現実であり、ここには大きな課題があります。しつこく誘えばよいというものではありません。

 私自身は知人に誘われ伝道集会に行きました。伝道礼拝の説教者の話を聞いて私は、「話がうますぎる」「信じれば救われるなら苦労しないよ」というものでした。こういう話しは気をつけなければならない、まゆつばものだ、と自分に言いました。続けて礼拝に行く気持ちはありませんでした。

 ところがその日の夜、教会が火事になりました。さいわい早く消火活動がなされ大事に至りませんでした。それでも次の礼拝から、講壇の位置が礼拝堂の後ろに変わりました。教会が火事になったと聞いて、これは何かの因縁だと思い、次の週から礼拝に通うようになりました。私を誘ってくださった方の祈りが聞かれたのだと思います。

 幸いに礼拝に続けて来る人がいたとして、この人たちをどう信仰に導くか、です。教会によっては、求道者会、信仰入門講座などを用意しています。しかし知識の伝達では、人を悔い改めに導くことは容易ではないと思います。またこのような集会の用意のない教会もあります。基本的には、礼拝の説教によって導かれることが期待されます。祈りがなされます。

 昨日の礼拝で私の隣に求道者の方が座っておられました。その方が洗礼に導かれるように私は日々祈っています。説教の間、神さまが隣の姉妹を導いてくださるように祈り続けることもあります。そのために説教を聞くことがおろそかになったりすることもあります。この姉妹は私が知る限り2年以上、求道者として礼拝に出席されていますが、信仰の告白にはまだ至っていません。

 そこで私が思い出すのは次の聖書です。コリント一14章23~25節。

教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

 信者でない人が

「まことに、神はあなたがたの内におられます」

と告白するのはどのような集会なのかと考えます。これは礼拝でないことは明らかです。礼拝では説教者一人が語ります。聖書が語る集会では「皆が預言している」とありますから、集会に参加している人たちが語り合っているのです。今風に言えば、信仰の歩みについて正直な分かち合いがなされているということだと思います。私たちの教会の伝道が振るわない一つの理由に、このような正直な分かち合いがなされていないことにあると私は考えています。これがなされれば求道者が信仰に導かれやすくなると思います。

 求道者には、信仰に入るための壁があります。その壁をどう突き破るのか。私が求道者であった時、目に見えない神を信じることができることが不思議でしたし、罪が分かりませんでした。死の恐怖をどう乗り越えるのか、分かりませんでした。そんな思いを語る機会も場も教会にはありませんでした。

 伝道を考える時、信者でない人をいかにして教会の集会に来てもらうかということ、そして教会の礼拝、集会に来るようになった人をいかに信仰に導くのか、が課題であることを思います。

 

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大台ヶ原


 

 

 

 

「まあ、いいか」。老人の言葉

 「まあ、いいか」。この言葉が口から出そうになるのに気づいて、これは老化だなと思いました。一昨日、大台ヶ原に行ってきました。昨年から、今年の5月の終わり頃に行こうと考えていました。この時期に行くとヒメミヤマスミレの花を見ることができるのです。この花をこの目で直接見たことはありません。まだ見たことのないスミレに出会える、それはうれしい体験になるはずなのです。

 昨年は、7月初めにタカネスミレを見るために、秋田駒ヶ岳に登る計画をし、5月に宿の手配をしました。出かけることに何のためらいもありませんでした。8合目までバスで行けるので、体力的には楽です。ゆっくり高山植物を見ながらスミレを見つけては写真を楽しく撮影できました。

 しかし今年は、ちょっとおっくうになりました。「まあ、いいか」との言葉が出そうになりました。そう言って行くのをやめることもできます。行くことは誰にも話していませんから、「まあ、いいか」ですますことができます。「ああ、自分も年をとったな」と自分に言い聞かせればいいのです。それに2時間以上も車を運転するのは神経を使って疲れるし、事故を起こしたら大変だ、などと行かない理由はいくらでもあげることができます。

 「まあ、いいか」は妥協の言葉、諦めのひびきのある言葉なので使うのにためらいを感じます。それで妻に「来週行くぞ」と声をかけ、自分にはっぱをかけました。

 当日の朝、途中で車が故障したらどうしようか、などと思い煩いが生じました。関西方面のJAFの電話番号は何番なのか慌ててネットで調べたりして、危機管理ができていない自分を思い知らされました。つい余計なことを考えるので「まあ、いいか」が出てくるのかもしれません。

 とはいえ「まあ、いいか」は出てくるのです。今日、散歩どうしようか?「まあ、いいか」。二週間ほど前から血圧の薬のせいか唇にしびれが生じました。運動をして血圧を下げる努力をしなければならないと今、自分に言い聞かせています。

 信仰の事柄に対しては、「まあ、いいか」は決して言いたくないです。 

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大台ヶ原

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ヒメミヤマスミレ

 

聖霊の導きを求めて(6)

 聖霊に関する取り組みは、聖霊に関する本を読むこと、そして聖霊について語る聖句を調べることから始まりました。聖書から聖霊に関する聖句を集め、それを分類したことがあります。

  • 聖霊によって信仰者になる
  • 聖霊の約束
  • 聖霊のバプテスマ
  • 聖霊の満たし
  • 聖霊を受ける条件、聖霊の内住
  • 教会を形成する聖霊
  • 聖霊による伝道

などなど。 

上記のテーマ毎に聖句を分類しました。聖句を数えるとおよそ150近くありました。それらをまとめることは私には至難の業でした。

 しかし『聖霊の教理』(ヘンドリクス・ベルコフ著、日本キリスト教団出版局)を読みました。これは神学的に聖霊についてまとめてありました。たしかに聖霊について聖書に基づき、まとめてありました。聖霊を神学的、知的に理解するにはよいのかもしれません。しかし私はもっと実践的に理解したいと思いましたし、具体的に聖霊を信じる生活がどのようなものか知りたかったです。

 「聖霊」が書名に含まれている本を買いあさり、読みました。今ならそれらの本は、二つの立場のどちらかに立って書かれていることが分かりますが、その当時は分かりませんでした。二つの立場とは、聖霊による洗礼をどう理解するのか、その理解の相違によるものです。

  • 聖霊による洗礼は、水の洗礼と同時に起きており、信仰者は聖霊による洗礼を受けたと信じる、という立場。
  • 聖霊による洗礼は水の洗礼とは別のものであり、信仰者になってから与えられるものと信じる立場。この立場の場合、聖霊による洗礼を受けると異言を語るようになると考えられています。

 それぞれの立場から本が書かれています。私は立場の違いを弁えることがなく、両方の立場のものを一緒くたに読みあさりました。

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