朝7時起床。朝食。イザヤ24章を読む。朝の祈祷会。イザヤ書24章を取り上げる。解説書を読んでも解釈が人によって違うので、なかなか難しい。それでも参加者はこれを読み、感想を語り合う。
イスラエルの民は神の裁きを受ける。彼らは、神から与えられた律法を破るから。彼らが律法を与えられたのは、それを守り祝福を受けて生きるためであったのに、それを破り呪いを身に招いている。イエスもイスラエル人として、十字架で、罪の裁きを受けた。
イスラエルの民は、神の裁きを受けながらも、神に従い歩むよう召されていた。うまくいかなかった。人は罪の奴隷であることを証しする歩みをした。イエスは、十字架にかかり復活し、罪の贖いだけではなく、人を罪から解放するための働きをした。そこに救いの恵みがある。この恵みを受ける時、罪から解き放たれ、聖化が起きる。ところが、この聖化がクリスチャンの生活の中でうまくいかない。なぜか。
それは私たちの中に、苦い根があるから。この根が私たちの内にあって、悪い実を結ぶように作用する。この根を抜くことが大切。これについては、以前から、祈りのミニストリーの働きを教会の中で紹介してきた。はからずも今回も根を抜く大切さを話した。そしてこれをめぐって話し合いがなされた。二人の教会員が祈りのミニストリーのスクールに参加することになった。神さまの導きを期待している。
午後、部屋の整理。牧師室の天井についている蛍光灯を新しくして、明るくなったので、机の位置を変え、部屋の模様替え。集会室では8名くらいの教会員がデボーションの分かち合いをしている。それから教会員の見舞い。
「教団新報」である教師の死が報じられていた。以前静岡にいた時、同じ地区の牧師で、僕と同じ年齢。60歳で天に召された。もっと牧会をしたかったのではないか、無念な気持ちがあったのではないか、と想像する。3年前くらいと思うが、この金沢にある教会の牧師で、僕と同じ年齢の牧師がやはり急逝した。その時も同じ思い。僕は今死んだら、まだなすべきことがあるのにそれができないという無念さを感じるのだと思った。
夜の祈祷会。詩篇28。ある方が僕の説教について、「抵抗なく聞くことができる。考え考え話しているからでしょう」とコメントしてくれた。自分の説教に対するコメントを聞く機会が少ないので、うれしく思った。
終わって「マチベン」というドラマを見た。江角マキコ主演の弁護士のドラマ。いいドラマ。プロとはどういうものであるかを考えさせられる。プロとは、人の心の中にぐいぐい入っていき、信頼を得ていける人、そんな印象を持った。