クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


本日のメッセージ(2008.10.12)聖書 テモテ二 3:16〜17 
聖書は・・信仰と生活との誤りなき規範なり


 ある人が友人から、少年サッカーの試合の審判を頼まれました。試合に遅れるので、自分が行くまで審判を引き受けてほしいとの依頼です。サッカーについての知識はないのですが、子供の試合だし、彼が来るまでなのだから、何とかなるだろうと引き受けました。少年たちがそろうと笛を取ってピーと吹いて試合開始です。


 白いラインを引かなかったので、ボールが線から外に出たから、とそこからやり直すことができないので、子供たちはどこまでもボールを追いかけます。また子供たちがボールを追ってぶつかったりしますが、何が反則か、わからないので放っておくことになりました。やがて子供たちの間に険悪な雰囲気が生じてきました。


 ちょうどそこへ審判をする友人が来ました。早速、白いラインを引きました。そして試合開始です。少年たちがぶつかり合った時には、笛を吹いて、反則を取りました。すると落ち着いた試合となりました。


 これはルールが、楽しく、伸び伸びとした試合には必要であることを教えています。同じように、この人生を生きる時、聖書という規範が、私たちに自由を与え、生きる喜びを与えるのです。今日も、教団の信仰告白から学びましょう。

1.聖書が、信仰と生活との誤りなき規範であると知ることが大切 


 「規範」とは何でしょうか。「従うべき規則」「判断・評価または行為などの拠るべき基準」の意味です。世の中には様々な規範があります。たとえば日本国憲法。これは国のあり方を根本的に定めた規範です。交通法規は、運転する時に従うべき規則集です。料理本は、そのレシピに従うとおいしい料理ができる手本、模範です。マニュアルは、機械の操作に関する説明書で、これに従うと操作が円滑にできます。


 日本基督教団信仰告白には、「聖書は、信仰と生活との誤りなき規範である」と書いてあります。聖書は二つのことを教えているのです。

  • 第一に人間が神について何を信じるのか。
  • 第二に神が人間に求められる生き方が何か。


テモテ二3章15〜17節を読みます。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(15節)。

聖書は、まず神について、神が与えてくれる救いについて書いているとの意味です。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)。

聖書は人間が、に神が求める生き方をするように教えるとの意味です。

「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(17節)。聖書の教えに従う時、信仰者は、善い業を行うように整えられ、神が願う生き方をするようになるとあります。

 聖書に従う時、神が願われる信仰者として生きることができるわけです。私たちはまず、聖書というのは信仰と生活の規範であることを認識したいと思います。まず、聖書とは何か、聖書は「信仰と生活の規範」であることを是非知ってください。


 料理にもレシピがあり、料理の材料や調理法が記されています。これがあるから、おいしいものが作れます。何でも自由にしてイイですよと言われると、かえって戸惑い、どうしていいかわからなくなるのです。聖書は、私たちが生きる上での規範なのです。


2.聖書を自分の考え方の土台とし、聖書を規範とすることが大切 


 聖書は、信仰と生活における規範です。


まず、信仰における規範ということについて。信仰の規範とは、私たちが神について何を信じるべきかを聖書が教えているということです。


 人間は神について、考え、想像することができます。神について自分のイメージをつくることもできます。それは間違った神理解となります。私たちは聖書が告げる通りに神を信じます。また聖書が与える救いについてもきちんと理解することが大切です。そうしないと御利益信仰になる危険も生じます。


 聖書は「誤りなき」規範です。聖書の内容は、絶対的に信頼できるし、十分であるということです。聖書は規範ですから、聖書が何か不足しているかのように考え、神について新たな教えを追加することはできません。あるいは、聖書が余分なことを語っているかのように考え、神についての教えを削除することはできません。

「あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」(申命記13:1)。

 キリスト教の歴史の中で異端と呼ばれる教えが登場しました。聖書の教えをゆがめ、別な教えを付け加えたり、聖書の教えを削除したりします。


 次に生活における規範ということについて。イエス様は、聖書の教えを要約してこう教えています。神に対して。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)。人に対して。「隣人を自分のように愛しなさい」。聖書は、さらにこれらの二つの教えを具体的な教えにしています。


 聖書こそ人間の生き方を教える土台です。私たちの物事の考え方の土台は聖書になります。私たちは聖書に基づいて考えるのです。ある事柄について、聖書の教えと自分の考えとが一致しない時は、聖書の教えを採用します。それが聖書を信仰と生活の規範とすることです。聖書を読み、聖書の教えを自分の考え方にするようにすること、それが聖書を規範とすることです。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。

 人は聖書の教えよりも、自分の考えを上に置きたがるものです。聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上で有益です、とあるように、聖書に信頼することが大切です。


 人間が犯した最初の罪、それは、自分の考えを神の教えよりも上に置いたことでした。アダムは、神様から取って食べると必ず死ぬから食べるなと言われた木の実を、食べてしまい、神に背きました。


 聖書を、自分の考え方の土台とする、それが聖書を規範とすることです。
信仰の成長とは、自分の考え方が聖書と一致するようになることだといえます。考え方が変わると行動も自然に変わります。


3.聖書を規範とする二つの方法 


 これには二つの考え方があり、どちらも必要だと考えます。一つは、聖書を「身につける」ことです。聖書が教えることを理解し、聖書の教えに従って物事を判断し、また行動するようになることです。聖書によって心が養われることです。


 聖書を知らなければ、聖書に基づく判断も、行動もできないので、聖書を読みます。私たちの行う判断が、聖書に基づくようにします。聖書によって養われた判断力を身につけて生きるわけです。こういう考え方を身につけると、ある考え方が聖書に一致するかどうか、識別することができるようになります。聖書的な考え方を身につけないと、この世的な考え方、つまり信仰的でない考え方が忍び込んできます。この点はいくら警戒してもし過ぎることはありません。ですから聖書に親しむことが本当に大切です。


 聖書を「身につける態度」の良い点は、向こうから来る状況については、聖書に基づく判断をすることができる点です。たとえば会社の上司が自分に八つ当たりをした。どう対応したらよいのか。新しい仕事が与えられ挑戦を求められているが、うまくいくか心配だ。こういう時、聖書を知っているとどう対応したらよいのか、わかります。


 聖書を規範とするもう一つの考え方は「日ごとに導きを求める態度」です。日々聖書を読み、そこから受け取った教えを生活に適用するのです。


 ダビデペリシテ人との戦いにおいて、しばしば神様にどうしたらよいか、導きを求め、神から答をいただきました(サムエル記下5章)。


 またこの態度の良い点は、新しい状況を造ることができるという点です。聖書にこうあるから、こうやってみよう、ああやってみようという独創性が生まれ、生活に新しい変化が生まれるのです。


 アブラハムは、神の言葉を聞いて、新しい土地に旅立ち、彼の人生は新しい展開を見せることになりました。それがアブラハム物語として聖書に記録されています(創世記12章以下)。


 先週、聖書日課でマルコ福音書を読みましたが、こう書かれていました。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」(マルコ4:33)。


 このイエス様の態度に私は大きな示唆を受けました。


 イエス様が人々の聞く力に応じて語ったことは、説教について示唆を与えてくれました。説教を聞く人は、さまざまです。それぞれの聞く力に応じて聞き取ってもらえるように語ることが大切だと思いました。


 聖書の言葉が、私たちの生き方に変化をもたらすのです。聖書の言葉が、私たちの信仰生活を造るのです。私たちの生活に新しい展開をもたらすのです。これは楽しみなことです。神様が私たちの生活に関わってくださるのです。これは喜びです。


 聖書を規範とするとは、聖書が教えることを理解し、身につけ、聖書に基づく判断ができるようになることであり、聖書の言葉を生活に適用し、神様に導かれる日々を送ることができるようになることです。


聖書に親しみ、この二つを実践していきましょう。


祈り

 天の父、聖書を信仰と生活の規範とすることにより、私たちに自由が与えられ、伸び伸びとした信仰生活を送ることができることを教えてください。

自分の考え通りに生きるのではなく、聖書に基づく考え方をすることが幸いであることを教えてください。

自分の判断と聖書が示す判断が異なる時、聖書が示す判断を採用し、聖書を規範とできるように助けてください。

聖書に親しみ、聖書に基づく判断ができる者とならせてください。

また聖書に親しみ、自分の生活に適用することができますように。

判断に迷う時、あなたが導きを与えてくださると信じ、聖書を通してあなたの導きを求めることができるようにしてください。

聖書の言葉を思い巡らし、生活に適用することを通して、私たちの人生が新しく切り開かれていくことを教えてください。

切り開かれていく楽しさ、喜びを体験したら、それを人に伝えることができるようにしてください。

イエス・キリストのみ名により祈ります。