昨日の午前中の祈祷会では、用意しておいた質問で話し合いが尽きなかった。創世記2章で、人が土の塵でかたち造られ、命の息を吹き入れられて生きる者となったことを読んだ。このようにして創造された人間は、二つのものを必要としている。つまりパンと神の言葉である。イエスも人はパンだけではなく、神の口から出る一つ一つの神の言葉によって生きると教えている。そこで質問。
聖書を知らずに生きている人たちと、信仰を持ち、聖書を読み、聖書の言葉によって生きようとしている人たちとどんな違いがあるのでしょうか。
聖書を知らずとも、一生懸命に生き、幸福に生きているように見える人が沢山いるし、立派な生き方をしている人もいる。何が違うのか。
夜の祈祷会も、必ず参加するメンバーが増えてきた。さらに心開かれて自由に話し合えるようになることを願っている。こういう話し合いをする時、突っ込みを入れてさらに話を引き出し、話しを深められると話し合いが面白くなる。また各自が聖書を読んで考えるようになり、生きた学びができるようになる。
多くの教会では、毎週聖書研究が行われる。研究といっても、本格的な研究ではなく、聖書の学びである。あるいは祈祷会と言って祈り会が開かれるが、聖書の学びも普通行われている。かつて僕もそうしてきたのだが、聖書研究というと、牧師が聖書の内容について解説し、その後話し合いが行われる。参加者は牧師の話をメモしたり、受けとめたりする。牧師が教える立場、参加者は学ぶ立場になり、知識を牧師から参加者に伝える学びとなる。自分の経験から、こういう学びはあまり効果がないということである。
僕は今、祈祷会で、聖書の学びをしているが、自分から解説したり教えることはしない。まず一緒の聖書を読んで、感想や疑問、教えられたことを分かち合う。参加者が聖書と向き合うのである。それから色々質問を出して、共に考えていく、そういう学びをしている。参加者がだんだん聖書に親しみを覚え、聖書を読む力が育ってきている。牧師としては、どういう質問を出すのがよいのかが課題。よい質問はよい学びを導く。
『牧会ジャーナル』という季刊の小冊子がある。夏号は、「人を育て、共に育つ」という特集を組んでいる。最初の文章は、「コーティングによる牧会者育成」と題がついていてなるほどと思わせる内容。洗礼を受けた人に教友をつけるという話を聞いたことがあるが、新任に牧師にコーチをする牧師を一人つけるのである。コーチは、新任牧師が自分で選ぶ。そして定期的に話し合いを持つのである。コーチは、新任牧師から出された質問に答を与えるのではなく、本人が答を出せるように助けるのである。
あるケースが紹介されている。小さな開拓教会で牧会している牧師が、教会で有名な音楽ゲストを迎えたいが、予算的にも人数的にも惨めな形になってしまわないか、大変気にしていた。その不安を吐露した時、コーチから、「あなたの一番気にしているのは何ですか?」という質問を投げかけられた。すると、「自分の気にしていることは大事なことではない。もっと本質的なことがある。たとえ少ない人数でも少ない謝礼でもそれを正直にゲストに伝え、正面からぶつかっていけばいいのだ」と気づかされ、失礼がないように配慮しつつも大胆になることができたのである。こういう「自分の小さなこだわり」の発見と、その自分を越えていく大胆な信仰は、人の教訓では得られないものであり・・。
牧師の牧師が必要である、とはこれまで何回も聞いたことであるが、なかなか実現しない。
牧会とは、人を育てることだと思っているので夏号を読むのが楽しみである。この夏号には、本の紹介がなされている。『兄弟よ、われわれはプロじゃない〜牧師たちよ、ラディカルになれ』という本である。翻訳ではない。英語の本である。
Brothers,We Are Not Professionals:A PLEA To Pastors for Radical Ministry
その第一章で著者は、世の中のプロフェッショナル、つまり世が高く評価する特殊な技能を持った専門職のメンタリティーが神の預言者としての牧師をだめにしてしまうという。
なんか、面白そう。早速アマゾンで注文。