本日のメッセージ(2009.8.2)
聖書 ヨハネ一 5:6〜13 永遠の命を信じる
ヨハネの手紙の著者が、この手紙を書いている理由が13節に書かれています。
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」。
神の子の名を信じているとは、イエス・キリストを信じているということです。クリスチャンは皆、永遠の命を持っていることを悟らせたい、とヨハネはこの手紙を書きました。皆さん、自分が永遠の命を持っているって知っていましたか。
では自分が永遠の命を持っていることを、どうしたらわかるのでしょうか。
命をいうのは人を生かすものです。生物としての命を持っていることは簡単にわかりますよね。心臓が動いていることがわかるし、体が動いて活動できますからね。命を持っている人は生きているし、死んだ人は全く動きません。だから、生きていれば、命があることがわかります。
永遠の命を持っている人は、永遠の命を持っている人らしく、生きています。それで永遠の命を持っているかどうかがわかります。永遠の命を持っている人らしく、生きるとはどんな生き方をしているのでしょうか。ヨハネは、それは兄弟を愛することだと教えています。兄弟とは、信仰者のことです。教会に連なる人々を愛する、それが永遠の命を持った人の生き方だと教えています。
1.証しをどう評価するのか
信じるというのは一種の決断です。何かを真実だと考えることにする、何かを真実だと認めるという決断です。私たちが決断する内容は、イエスが神の子である、救い主である、ということです。何がこの決断の根拠となるのでしょうか。
イエスが行った素晴らしい教え、奇跡は、イエスを信じる根拠となるのでしょうか。ヨハネ福音書では、イエスは、「私は父なる神から遣わされて神のみ心を行い、神のみ心を語っている」と告げました。イエスの言葉を文字通りに取れば、イエスは神から遣わされた救い主なのです。
しかし信じない人たちもいたのです。そこでイエスは言います。
「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(5:36)。
ヨハネというのは洗礼者ヨハネという人物で、人々に「罪を悔い改めなさい」と説教をし、罪を悔いる人々にヨルダン川で洗礼を施していました。沢山のイスラエルの人々がヨハネのもとに来たのです。そのヨハネがイエスは、イスラエルの民が待ち望んでいたメシア・救い主であると語ったのです。イエスが救い主であると証言したのです。
しかしイエスは、このヨハネの証しにまさる証しがあると言うのです。それは、自分が行っている業だ、と言います。イエスは病人を癒す奇跡を行いました。なぜこのような奇跡が行えるか、です。
イエスは言います。この奇跡は「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」なんだ。父なる神が、この奇跡ができるようにして下さったのだ、と。この奇跡こそ、私が父なる神から遣わされたメシアの証拠だというわけです。
<神がイエスをメシアとしてこの世に送られた>ことは確かめようがありません。そこでイエスの奇跡は、イエスがメシアとして送られたことを示す神が与える証拠だ、とイエスは言うわけですね。
信じるかどうかは、人によって判断が分かれます。ファリサイ派と呼ばれる人々がいました。神を信じ、神の教えを忠実に守ろうとする人々でした。しかし、彼らは、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡を見ても、イエスが救い主であるとは、信じませんでした。
イエスのなさった教えや奇跡は、聖書に記録されています。私たちはこの聖書を読みます。また礼拝で、聖書が語っていることの意味を説教を通して聞きます。そして「信仰は聞くことから始まる」とあるように、私たちは、信仰を持つようになります。
「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」(6節)。これはイエスが、洗礼者ヨハネの洗礼を受けたこと、そして十字架で死んだことを意味しています。
イエスが救い主としておいでになり、救いのみ業を行ったことを述べています。私たちはイエス・キリストの働きの意味を聞き、救い主であると信じるようになります。説教を聞いた人が皆信仰者になるとは限りません。そこには聖霊の導きがあります。聖霊の導きにより、私たちはイエスは救い主だと信じる決断に導かれます。
2.神ご自身の証し
「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。
私たちは普通、聖書を読み、説教によってイエスを信じるようになります。私たちが聖書を読み、牧師が説教をし、信仰に導かれるわけですね。これはいわば人の証しです。しかし神の証し、神が御子についてなさった証しがあるというのです。
イエスの時代の人々と違って、私たちはイエスを直接見たり、聞いたりしていません。その私たちに対して、神様が直接、証しをしてくださるというのです。つまり、イエスがメシアである、イエスが神の子であることを神ご自身が証しをしているというのです。それは聖書に書いてあることが本当であると信じさせてくれる聖霊の導きとは違います。
父なる神様ご自身が、私たちに与えて下さる証しです。その証しは何かというと、11節。まず、
「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと」とあります。神が私たちに永遠の命を与えられている、それが神の証しだというのです。
言い換えると、もしあなたが永遠の命を持っていると思うなら、それは、神様の証しだというのです。神は、イエスが救い主であること、イエスが神の子であることを私たちに信じて欲しいのです。そのために神は、私たちに永遠の命を与えたというのです。
イエスが救い主、神の子であるということは確かですよ、だってイエスを信じるあなたは永遠の命を持っているでしょ、と神様がおっしゃっているということです。
もう一つの証しは、「この命が御子の内にあるということです」と書かれています。このヨハネの手紙の最初にこう書かれています。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1:2)。
ここにはイエス・キリストが永遠の命そのものであると言っています。さらに有名なイエスの言葉もあります。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。イエスご自身、命であると言われています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」(4:9)。
イエスを信じるあなたは生きるようになったでしょ、と神はおっしゃっているということです。
もしあなたが、永遠の命を持っていると思えるなら、もしあなたが、イエスに命があり、あなたが永遠の命に生かされていると思えるなら、それは神様があなたに直接語りかけて下さった結果だということです。イエスが救い主であることは本当に確かですよ、と神様が語りかけて下さっているというのです。どう思いますか。
3.神の証しに対する我々の態度
神様は、私たちに証しをされました。あなたは永遠の命を持っている、と。神の子イエスは命である、と。ではあなたは、永遠の命を持っていると認めますか。イエスは命であると認めますか。
私が永遠の命を持っているとどうしてわかるのでしょうか。私がイエスは命であると思っているとどうしてわかるのでしょうか。自分の心に聞けばいいのでしょうか。でも心に聞いても心は曖昧な返事しかしません。
生きていれば命があるし、生きていなければ死んでいます。永遠の命を持っているかどうかは、私たちの生き方でわかります。イエスが命であると思っているかどうかも、私たちの生き方でわかります。永遠の命を持っている人は、それにふさわしい生き方をするのです。イエスを命だと思っているなら、イエスに従う生き方をするのです。
ヨハネの手紙が繰り返し語っていることは、互いに愛し合いなさい、という教えです。互いに愛し合いなさい、これはイエス自身の教えでもあります。ですから、永遠の命を持っている人は互いに愛し合うことに心を用いるでしょう。ですから、イエスは命であると考える人は、互いに愛し合うことでしょう。
大事なことは、互いに愛し合いなさいという教えを前にした時、私たちがどう考え、どう行動するか、です。
もしあなたが、互いに愛し合おう、そうしようと素直に思えるなら、そしてそのように生きているなら、あなたは永遠の命を持っています。そしてあなたも、自分は永遠の命を持っていると思われることでしょう。
もしあなたが、互いに愛し合うことにあまり心を用いていないなら、今、考え直して下さい。あなたが永遠の命を持っていることは確かなのです。
「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(5:12)。信仰者は、永遠の命を持っているのです。
大事なのは、この永遠の命に生かされて生きていきたいかどうか、ということです。もし永遠の命に生かされたいのなら、互いに愛し合う事へと一歩踏み出すことです。そうすれば、あなたは互いに愛し合うことを喜びとし、永遠の命を与えられていることを喜び感謝するようになるでしょう。
私たちは、神様の戒めを、つい難しいとか、無理だとか言って、あるいは内心いやだ思って、不従順になります。でもその時、注意して下さい。あなたは神の子とされました。神の子は永遠の命を持っているのです。あなたは、神の子として、永遠の命を持っている者として生きていきたいかどうか、あなたの気持ちが大事なのです。
神の教えに従うかどうか、それは、立派なクリスチャンであることを証明するというようなものではありません。もしそうなら、神の教えは私たちの自己満足のためにあることになります。そうであれば、立派でなくてもいいやとなったりします。あなたが永遠の命を受けた者として生きていきたいかどうか、あなたの思いが問われているのです。
あなたが永遠の命を持っている者として生きようとすればするほど、あなたは永遠の命を豊かに味わうことでしょう。
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)。
あなたが永遠の命を持っている者として生きようとしなければ、永遠の命を失うことになるでしょう。どちらを選ぶか、です。神様の願いは、あなたが永遠の命を持っている人にふさわしく生きることです。あなたは永遠の命をいただいているのですから、そしてその命に生きる喜びを備えられているのですから。
神様、イエス・キリストを信じる者に永遠の命がすでに与えられていると聞きました。感謝いたします。
それ故、この命を与えられている者として歩みます。互いに愛し合いなさいという教えに歩みます。永遠の命に生かされているという喜びに生かして下さい。
そして、私たちが神様につながり、このつながりは、私たちの死を超えて、神の国につながっていることを感謝します。永遠の命の恵みを感謝します。IX。