クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

教会を考える(1)牧師となった日

 1981年4月、神学校を卒業して三重県鳥羽教会に赴任しました。洗礼を受け、すぐに神学校に行き、4年学んで教会に赴任しました。牧師としての働きを開始しました。でも教会員としての教会生活は5年ほどで、教会とは何か、よく分かっていませんでした。

 鳥羽教会は当時、礼拝出席者は20名前後だったと思います。小さな教会です。教会は長老会(役員会)によって運営されます。一人の長老の方から、「先生の好きなようにしてください」と言われました。配慮に満ちた言葉でした。その時思ったことは、赴任


した牧師が自分の好きなように、あるいは牧師が自分の信じるところに従って教会の働きを導くとするなら、どこに教会の歩みの連続性、積み重ねがあるのかと思いました。個人商店なら、商店主が自分がやりたいようにしていいと思います。しかし教会は神の教会です。

 教会の歩みの連続性、それは伝統と呼ぶこともできます。伝統は大切ですが、それに固執してしまうと伝統に縛られた窮屈な教会になってしまいます。時代の変化に対応できなくなります。何よりも教会は伝道という使命を担います。工夫と積み重ねが必要です。

 新米の牧師には、教会がどのようにあるべきかなど考える基礎もないし、余裕もありません。教会は福音を宣べ伝える、それは確かなことでしたから、私は説教に力を注ぎました。今と違い当時は、注解書なるものが少なく、どの牧師も説教は苦労していたのではないかと思います。

 牧師の学びの集いで「教会論」という言葉を聞くようになりました。私は夜間の神学校に通いましたので、正直言って、昼間の神学校と比べれば、学びの量は少ないと思います。「教会論」、なにそれ?という受けとめでした。

 「教会論」、それは教会とは何かを論じるものです。それゆえ、教会を考える上で大切なものです。神学書をひもとき、教会とは何かを学ぶことになります。

 牧師が交代しても、教会の歩みは継続的に積み重ねるものである、そのような教会であるべきだ、それが私が学んだ最初の教会論でした。そして今の私の課題は、伝道できる教会とはどのような教会か、それを追求することです。牧師の働きから引退をしていますが。

伊勢神宮内宮