私はキリスト者の人生は、神の国に向かう旅と考えています。キリスト者にとって生きるとは、キリスト者として証しの生活をし、神の国に入るにふさわしい者になることと考えています。人生という荒野を旅する中で、神の国にふさわしい者になっていくのです。キリスト者は神の子として神の国に迎えられると信じています。
もちろん私たちは、自分はこれだけの者になったと自分を誇ることはできません。私たちは欠け多き者だからです。だからといってキリスト者として成長できないと卑屈になるのも違うと思います。大切なことは神さまに忠実に、忠実に歩むことです。忠実に歩むことこそ、神さまの前にふさわしいことだと思います。
エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。ローマ 8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。ヨハネ一 3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。
神さまはキリスト者を神の子と認め、神の子として接してくださいます。キリスト者は神の子です。神の子、それがキリスト者のアイデンティティーです。キリスト者は世にある時、残念ながら罪を犯します。しかし神を愛し、隣人を愛し、愛に生きることを志します。罪を悔い改め、少しずつ聖なる者に変えられていきます。神の子らしくなっていきます。これは聖霊の助け、導きを得なければ成し遂げることはできません。ですから祈りと神の子として生きる志が大切です。
キリスト者は礼拝生活をし、普段の生活でも聖書を読み祈る中で、神がいかなる方かを知ります。神さまを知ると自分が変わります。聖書が神の言葉と知ったとき、私は聖書の言葉を土台にして物事を考えるようになりました。自分の思いで生きることから、御言葉によって生きる人間に変えられました。
また聖書から神の約束を読み取り、約束を頼みとして生きるようになりました。自分の思いで生きるのではなく、神の約束に生きる者となりました。神さまはキリスト者を聖なる者にする、神の子にすると約束してくださり、既にキリスト者は神の子とされています。キリスト者はさらに神の子らしく成長していきます。信仰の歩みとは約束の実現を目指す歩みです。約束を実現させるのは、神さまです。
以上は私の経験ですが、キリスト者の皆さんは、それぞれが信仰者としての歩みの変化、前進を経験していると思います。
神を知り、生きかたが変わっていくとき、犯す罪の内容も変化していきます。神の子としての歩みを進める中で、心が清められ、今まで犯した罪を犯さなくなります。しかし同時に新たな罪に気づかされることもあります。さまざまな人との関わりに生きる人生において、神を愛し、隣人を愛することにおいて、少しずつキリスト者は成長していきます。
このように生き方が変えられ、行動が変えられることを私は悔い改めと呼んでいいと思います。古い生き方から新しい生き方へと変えられていきます。神の子として成長し、神の国に迎えられるのにふさわしい者へと整えられていきます。悔い改めとは、私たちのあり方、生き方を整えることです。
またそのような信仰の歩みにおいて、私たちを導かれる神さまをたたえる思いも育てられ、み国において、神さまをたたえる者としても整えられていきます。神の子となって、神をたたえる者となって、キリスト者は神の国に迎えられます。