讃美歌285の2番、3番は、わが主の道を歩むときに何が起きようとそれを受け入れていくという信仰が告白されています。
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ちからたのみ 知恵にまかせ
われと道を えらびとらじ
ゆくてはただ 主のまにまに
ゆだねまつり 正しくゆかん3
主よ 飲むべき わがさかずき
選びとりて さずけたまえ
喜びをも 悲しみをも
満たしたもう ままにぞ受けん
それは終わりの日に神の国が到来し、イエス・キリストがまことの救い主であることが公然と全世界に向けて明らかになることを待ち望んでの歩みです。そして4番はさらに強烈です。
この世を主に ささげまつり
神の国と なすためには
せめも恥も 死も滅びも
何かはあらん 主にまかせて
イエスの伝道第一声はこうでした。
マルコ 1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
神の国は近づいたと語りました。神の国つまり神のご支配が今は現実となったと宣べ伝えたのです。キリスト者は、神のご支配があることを信じて歩みます。つまり「神はわれらと共にいます」と信じて信仰の歩みをします。伝道とは神のご支配があることを伝えることと言うことができます。そして終わりの日、神の国が現実となります。
讃美歌285の4番は、「この世を主に ささげまつり 神の国となすためには」と歌い、そのためならどんな犠牲も惜しまないと歌います。「責めも恥も」拒まないのです。「責めも恥も」は迫害を指すと思います。さらに自分が死んでも滅びてもなお神の国の実現を目指して歩むとの一途な信仰が告白されています。
使徒パウロはこう語ります。
ローマ 9:3
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
肉による同胞、つまりユダヤ人が救われるなら、自分は神から見捨てられてもよいと告白します。讃美歌285番は、このパウロの信仰を模範にしているように思います。及ばずながら、この信仰に私も歩みたいです。イエス・キリストを信じる信仰っていいな、と思います。