以前、ある年配の信仰者が死を越える希望については「信じるしかない」と言われたことは忘れられません。「信じるしかない」。これはさびしいと思いました。しかし私には返す言葉がありませんでした。
私も年を重ね、死を越える希望に励まされたいと願うようになりました。そのために私がしたことは、死を越える希望を伝える聖句を集めることです。色んな聖句があります。これらの聖句を思い巡らすことは励ましとなります。「信じるしかない」のではなく、「信じてもいい」という気持ちに導かれます。
聖書は死者の復活を伝えています。人は死んで眠りに就きますが、目覚める時がくるというのです。これは本当なのだろうか、との疑問がふと心に浮かんできます。こんなあやふやな信仰じゃいけないと自分に言い聞かせます。そこで私に自分にこんな聖句があるぞ、と励まします。
ヘブル 11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信すること、見えない事実を確認することであるとあります。キリスト者は何を望むかというと、神の約束です。
ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
イエスを信じる者には永遠の命が与えられる。これが神の約束です。死を越える希望は、皆、神の約束として与えられています。しかし、確信するというのは、簡単ではありません。そもそも自分の力で、確信することはできません。少なくとも鵜呑みにする信仰でないなら。私は聖書に書かれている神の約束は、信じるに値すると考えています。信じるに値すると考えることと確信することは少し違っているように感じます。
聖書には、信仰は神の賜物だと書かれています。だから、この確信を賜物として与えられたいとの祈りが生まれます。だから祈ります。でもまだ確信は与えられていません。
私は今、ヘンリ・ナウエンというカトリックの司祭の本を読んでいます。この人の本は何冊も日本語に訳されていて、読者も多いようです。私は、今、彼の本を読む時が与えられたと思い、読んでいます。彼は「待ち望むこと」について文章を書いていて、私に示唆を与えてくれました。
永遠の命を信じるだけでなく、永遠の命を「待ち望むこと」が大事だとの示唆を受けます。確信させてくださいとの祈りは、待ち望むという姿勢の中で祈られるべき祈りと知りました。ではいかに待ち望むのか。聖句が示すことをイメージする、今、これを始めています。信じるしかない、のではなく、イメージを描くのです。
ヨハネ黙示録 21:2~4
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
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