クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

生きておられるイエス(4)キリストに似た者となる

 私は最近、自分の内にイエスが生きておられると確信することにしました。それはイエス・キリストの復活を信じることにつながります。こう考えると腑に落ちることがあるからです。

 私はキリスト者としてキリストに似た者となることを目指しています。次のような聖句があります。

ヨハネの手紙一 3:1~3
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 

 御子が現れる終末の日、私たちは御子に似た者となるとあります。それなら、今、キリストに似た者となる歩みをすれば、私の信仰者人生が、終末の日に完成します。

コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 主の霊の働きを受けるなら、私たちは主と同じ姿に造り変えられていくとあります。私にとって信仰者として歩むとは、主と同じ姿に造り変えられていくこと、キリストに似た者となることです。

 自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。

 私の好きな讃美歌11番にこのような歌詞があります。

こころをきよめて 愛を満たし
わが主のみすがた 成らせたまえ

 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が身につくように。
(コロサイ3:12)

 これはキリストに似た者となることを願っての、私の日々の祈りの一つです。

ムスカリ 散歩道

 

生きておられるイエス(3)イエスと結ばれて

 自分の内にイエスが生きておられる、と語るのは勇気のいることです。何言ってんの、と人から言われそうです。しかし、信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の内にイエスがおられると自覚することは大切なことと考えるようになりました。それは実感することではなく、霊的なこと、つまり信じる事柄です。

ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 使徒パウロは、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちは、キリストと共に葬られ、キリストが死者の中から復活させられように、私たちも新しい命に生きるとあります。

 ここには洗礼を受けるとはどういうことことかが語られています。私たちは洗礼を受け、キリスト者になります。それはキリストに結ばれることであり、キリストが死んで復活されたように、私たちも死んで新しい命に生きるのだというのです。キリストの死と復活は私の出来事でもあると教えられます。

 私はこのことを信じて、自分は生まれ変わって新しい命に生きていると信じます。パウロはさらに語ります。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 私は自分が罪から解放されていると信じます。それは私がキリストに結ばれて、新しい命に生きているからです。キリストが私のうちに生きておられるから、私は罪から解放されていると信じますし、私は罪から解放されていると信じるので、キリストが私のうちに生きておられると信じます。

 罪から解放されるとは、罪を犯さなくなることではありません。念のため。

シキミ 里山で



 

 

生きておられるイエス(2)御言葉によって生きる

 イエスの復活を信じるとは、主イエスが生きておられることを信じることです。主イエスが生きておられることと私の信仰生活はどのような関係があるのでしょうか。主イエスが生きておられる現実を私はどのように生きているのでしょうか。さらに言えば、私のうちに主は生きておられるとどうしたら言えるのでしょうか。

 正直に言うと、主が今も生きておられると信じていましたが、自分との関わりで考えることはしてきませんでした。漠然と主イエスはわたしと共にいてくださると信じるぐらいでした。

 しかしこの時期、主イエスの復活を語る聖書を読むとき、あらためて考えるのです。主イエスが生きておられる現実を私はどのように生きているのか、生きていると言えるのか。

 私はこの問いに答えたいと考えました。そして思いめぐらし、私は答えを得ました。

 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 言が肉となる、つまり言が人となられたのが主イエスです。私はある時から、聖書の言葉を土台にして物事を考えるように導かれました。自分が学んだこと、経験したことをもとに考えるのではなく、聖書の言葉、神の言葉を第一にして考えるようにしました。

 私の生きる基盤は、聖書、神の言葉です。私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。私が神の言葉を土台にして生きるとは、私が主イエスを土台にして生きていること、つまり主イエスが私のうちに生きているということです。

 信仰者としての私の歩みを見て、人がどのように言うのかは知りません。しかし私は、このことは主が私のうちに生きておられることのしるしだと告白します。そして主イエスが私にうちに生きておられると自覚して信仰の歩みを積み重ねたいと思います。

 主が私のうちに生きておられるとの告白は大胆な告白で傲慢に見えるかもしれません。人はこのような告白をすることにためらいを覚えます。「あなたの信仰生活を見ていると、そんなのあなたの思い込みですよ、主があなたの内に生きておられるようには見えませんよ」と人は言うかも知れません。いやきっと言うでしょう。

 だから私は他者に向かってではなく、主イエスに向けてこの告白をします。この告白をしなければ、主が今生きておられることと私の信仰とは無関係になってしまいそうです。他者がどう思おうと、主は私の内に生きておられると主イエスに向かって告白し、御言葉によって生きていきます。

馬見丘陵公園

 

生きておられるイエス(1)

 ルカ福音書24章13節以降で、二人の弟子がエマオ村に向かって歩いていました。そこにイエスが現れ彼らに近づきます。彼らの目が遮られていたので、弟子たちはそれがイエスであるとは気づきませんでした。

 二人の弟子たちは、イエスがメシアであると期待していました。彼らが理解するメシアは、イスラエルをローマの支配から解放するメシアでした。そのイエスが十字架で死んでしまったので落胆していました。

 この二人の弟子たちは、イエスを葬った墓に行った女性たちが、イエスは生きておられると報告するのを聞いたのですが、たわごとに思え、信じませんでした。

 そこでイエスはこの二人の弟子たちに対して、聖書全体から、イエスについて書いてあることを説明しました。つまり十字架についたイエスはメシアであることを説明しました。

 やがてエマオ村の近くに来たとき、弟子たちはイエスに自分たちの村に来て泊まってくださいと話します。そして家に入り、夕食となります。イエスがパンをとり賛美の祈りをしてパンを裂き、二人の弟子たちに渡したとき、彼らの目が開け、彼らはそれがイエスであると気づきました。するとイエスの姿が消えました。イエスは生きておられる、そのことを知った弟子たちは、急いでエルサレムに戻り。他の弟子たちにイエスと出会ったことを伝えました。

 聖書は、イエスの復活を語り、イエスは生きておられると語ります。

 イエスが復活したとは言い換えると、主イエスは生きておられる、ということです。イエスの復活を信じるとは、主は生きておられると信じることです。私にとっても、主は生きておられるということです。主は生きておられるという現実に自分はどのように生きているのかと我が身を振り返るよう導かれます。

ガラテヤ 2:19
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 使徒パウロは、キリストはわたしの内に生きておられると語ります。キリストはあなたの内に生きておられるのですかと問われたら、どう答えたらいいのだろうか。立ち止まります。

 するとある賛美が心に響きます。

主は今 生きておられる
わが内に おられる
すべては主のみ手にあり、
明日も生きよう、主がおられる
(Because He Lives I Can Face Tomorrow)

ミツマタ 和紙の原料となる木

 

信じる心と疑う心(4)信仰の戦い

 疑う心、これは私にとっての「とげ」と考えます。私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。私の心のスキ、それは確信をもって信じたいとの思いです。信じて大丈夫だという安心感を私は欲するのです。信じるなら誰だって疑わずに一途に確信をもって信じたいと考えるのではないでしょうか。そこでサタンは、疑う心を私の心の中に送り、私を動揺させようとします。

 なおサタンなど考えず、自分自身の信じる心が弱いから疑う心が生じるという理解もあると思います。信念の弱さです。しかし聖書は悪しき勢力を語ります。

エフェソ 6:10~11
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

 そもそも私たちが罪を犯すことにおいても、罪を犯すように働きかける力があることは忘れてはならないと思います。

 信仰者には悪魔との戦いがあります。疑う心をなくすのは悪魔との闘い、霊的な戦いと理解します。私が頼りにするのは主の偉大な力です。主の偉大な力は、神の武具を通して働きます。エフェソ書6章に神の武具が書かれています。

 神の武具には、「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備という履物」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」があります。

 私が特に必要とするのは、真理の帯、信仰の盾そして霊の剣です。

 私は真理の帯を締めます。真理である神の言葉、キリストによる救いを帯として締めます。悪魔がもたらす疑いの火の矢を「私は信じる」と信仰の盾で受けとめ、み言葉という霊の剣を持ち、御言葉をもって悪魔に切りつけ、戦います。自分が何を信じているのか、自分に確認します。讃美歌は力になります。信仰を表明するからです。讃美歌を歌うことは信仰の表明となります。

 大げさな表現かもしれませんが、自分は何よりも信仰者であること、何を信じるのかを明確にすること、そして「ここに立つ」と自分の態度をはっきりさせ続けることの大切さを思います。

サクラ 散歩道

 

迫ってくるキリストの復活

 妻の兄の葬儀に出席した翌日、ルカ福音書24章1~12節を黙想しました。イースタを迎えた直後だったので、この箇所を読みました。

 婦人たちが、イエスの葬られた墓に行ってみると、石が転がされ、中に入ることができました。イエスの遺体が見当たりませんでした。途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ言いました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。

 さらに言います。

「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

 婦人たちは、弟子たちのもとに戻り、一部始終を語りましたが、弟子たちはその話しが戯言に思え、信じませんでした。弟子たちはイエスが三度ご自分の苦難と復活を予告した言葉を聞いていました。それでも信じませんでした。

 弟子たちにとって死者の復活という出来事はありえない出来事でした。それが彼らの実感でした。

 私はキリストの復活を信じています。でも今日この箇所を読んで私は、この出来事は他人事ではないと感じました。一種の迫りを感じました。

 老いた今、この箇所を読む時、別な読み方ができます。キリストは死者の復活の「初穂として」復活されたことを思います。

コリント一 15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 キリスト者は、キリストに続いて復活するのです。キリストの復活を信じるとは自分の復活を信じることであることが今回、迫ってきました。こんな経験は初めてです。勿論、自分が復活することは信じていましたが、今回、迫ってきたのです。「お前も復活するんだぞ。信じるか」と。

 イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」と語られました。「このことを信じるか」、私の頭の中で響いています。

アリアケスミレ 散歩道

 

信じる心と疑う心(3)サタンの使い

コリント二 12:7
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

 使徒パウロには、弱さがありました。それが何か明確ではありません。パウロ自身はその弱さをこう語ります。

わたしの身に一つのとげが与えられました。

 このとげは、パウロの弱さになっているのです。さらにこのとげは、

わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

と語ります。パウロはサタンから痛めつけられるのです。サタンはパウロを攻撃するのです。しかしそれは思いがけない効果をパウロにもたらしました。それはパウロを思い上がらないようにする、というのです。

 思い上がらないことはよいことです。でもパウロはそのとげを取り除いて欲しいと神に三度祈りました。三度祈ったというのは文字通り三回というのではなく、何度となく切に祈ったという意味だと思います。そして神からの答えがありました。

コリント二 12:9
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 神はとげを取り去って欲しいというパウロの願いを聞き入れませんでした。そのとげのためにパウロには弱さがあります。しかし「力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」との神の答えを受けとめ、パウロは自分の弱さを誇るという信仰に立って使徒としての働きに従事しました。

 私には疑う心がある。それにもかかわらず私は信じるという立場に立って私は信仰の歩みをしてきました。疑って不信仰の立場に立つのではなく、信仰の立場に立って信仰の歩みを続けました。疑う心、これは私にとっての「とげ」なのかもしれないと考えました。信仰を伝える立場の者が疑いの心をもつ、それが弱さです。人には言えません。

 このとげはサタンが送った使いと理解をしていいと思うようになりました。サタンは私に「疑い」という火の矢を射ているのだと考えるようになりました。すると火の矢に対する対処方法が、聖書に書かれています。そこにはさらにうれしくなる神の約束がありました。

ダイコン 散歩道