クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 宗教裁判を受けて、地動説を否定されたガリレオは、敵対する神学者に言った。「天国のことはあなたがたにお任せするが、天がどう動くかは、私たちに言わせてほしい」。

 聖書つまり信仰が取り扱う対象と科学が取り扱う対象は異なることを認識する必要がある。かつては教会が、その権威によって科学を否定した。今、科学が信仰を否定しかねない。
 『図解雑学 進化論』(中原 英臣著)を買ってきた。入門書として興味深く読める。その中で、地動説により、

「聖書が主張する天動説は否定された」

という記述がある。当時の教会は教会の持つ権威によって天動説を唱え、地動説を否定しようとしたかもしれないが、聖書自体は天動説を主張しているわけではない。誤解である。そういう記述によって聖書が非科学的、従って信仰は非科学的、非合理的と理解させる力が働く。

 この世界になぜたくさんの生物がいるのか、それを研究すべく生物学が存在する。科学は、「どのようにして」という問いを向ける。世界はどのようにして存在するようになったのか、どのようにして沢山の生き物がいるのか。それを解明しようとする。様々な観察結果をもとにして判断する。その結果の一つが進化論である。宇宙を観察し、ビッグバン宇宙論が論じられる。これらは現象の解明である。
 一方、聖書は、神が種類に応じて生き物を造ったと書く。世界は七日間で創造されたと書く。科学と聖書の記述が矛盾するように思える。ここで動揺を感じる信仰者もいる。どっちが本当なのか。

 そこである人々は、

聖書が真実と言って、科学が語ることに目をつぶる。

この人々の中には、学校で進化論を教えてはいけないと裁判を起こした人もいる。

 別のある人々は、

聖書は非科学的といって、信仰を捨てる。あるいは信仰を求めない。

進化論を唱えたダーウィンは神学校に通ったのだが、信仰は持っていない。もともと持っていたのかどうかわからないが。ダーウィンは死ぬ前、進化論は間違っていたと言ったという伝説がある。本当かどうかはわからない。聖書は非科学的と考え、信仰に否定的になる人は多いと思う。

 ある人々は、

聖書と科学は取り扱う対象、分野が違うと考える。

 科学は現象を取り扱う。聖書あるいは信仰は理由・意味を取り扱う。どのようにしてこの宇宙、地球ができたのか、人間という生き物がどのようにして存在するようになったのか、科学が究明することを事実として受け入れる。しかし科学は、なぜ、この世界が存在するのかは、解明できない。なぜ、私が存在するのかは解明できない。私が存在する目的、意味は科学は答えない。なぜ、に答えるのが聖書であり、信仰である。

 具体的に言えば、なぜ、私がここに存在しているのか。科学は、両親の性交による精子卵子の結合結果と説明する。それ以上でもそれ以下でもない。両親がセックスした時、沢山の精子の内、たった一つの精子卵子と結合し、その結果、私が存在している。ほかの精子が結合していれば、私は存在しない。

なぜ、私であって、他の人ではないのか。

なぜ、私なのか。

偶然か、それとも何か意志が働いているのか。ここは解釈である。偶然と解釈する人もいるし、神の意志が働いていると見る人もいる。私が存在する意味は何か。私の存在が偶然なら、存在する意味もないし、目的もない。

 なぜ、沢山の種類の生物がいるのか。進化によって沢山の種類になったと現象的な説明はできる。それは科学の分野。そもそもなぜ、沢山の生物が存在するのか、という根本的な問いについては、神の意志、神の創造と解釈する人もいれば、偶然、と言う人もいる。

 科学と信仰(宗教)は争うものではなく、分野が違うことを認識する、それが僕の立場。
あれか、これか、という発想は好ましくない。あれか、これかを乗り越える発想が好ましい。これが僕の考え。進化論か、聖書の創造論か。あれか、これかは採らない。