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礼拝説教 福音は救いをもたらす神の力

 先日、T教会で説教奉仕をしたときの原稿です。読んでいただけるとうれしいです。

 

説教 福音は救いをもたらす神の力
ローマの信徒への手紙 1章16~17節

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

1.はじめに

→教会はキリストの福音を宣べ伝えるのを使命としています。

使徒パウロは、キリストご自身から福音を宣べ伝える使命を与えられました。

今日の聖書で彼は、福音を恥としないと語ります。

パウロはなぜ、福音を恥としないのでしょうか。

その理由をパウロは語ります。

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。

福音は救いをもたらす神の力だというのです。

福音は神の力だから恥としないと語ります。

なぜ、恥としないのでしょうか。

パウロがアテネでキリストを宣べ伝えていたとき、

パウロはキリストの死者からの復活を語りました。

それを聞いたアテネの人たちはあざ笑ったのです。世間の人は福音をあざ笑うのです。

だからこそ、私は福音を恥じないとパウロは語ります。

この救いをもたらす神の力が今日のテーマです。

まず最初に神の力がもたらす「救い」とは何か、

聖書に聞きます。

1.罪からの救いとは何か

 

→救いとは「罪からの救い」です。

マタイ福音書1章にマリアと婚約していたヨセフが登場します。

ヨセフは婚約中のマリアが妊娠したことに驚きます。

その時天使が現れ、ヨセフに語りました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。

マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。

この子は自分の民を罪から救うからである」。

救いとは「罪からの救い」です。

 

→そこで罪とは何かを知ることが必要となります。

それを知るには創世記3章を見ることが必要です。

この箇所は聖書の中で、最初に罪を語る箇所だからです。

アダムとエバが神の戒めに逆らった出来事が語られています。

 

→神は人をご自身に似せて造られました。

アダムです。

そしてその人をエデンの園に住まわせました。

その時、神は彼に命じます。

 

創世記 2:16~17

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

 

→さらに神は彼の助け手として女を造りました。エバです。

神はアダムを造り、助け手として女、エバを与えました。

アダムとエバ、この二人は、神がとって食べるなと言われた

善悪の知識の木の実をとって食べてしまいます。

神の戒めに逆らいました。つまり、罪を犯したのです。

罪とは、神の戒めに逆らうことです。

その結果、何が起きたのでしょうか。

 

→神は彼らに怒り、彼らをエデンの園から追い出します。

彼らを、生きていくために汗水流し、

労働して食物を得なければならないようにしました。

アダムとエバは、罪に対する神の怒り、罰を受けたのです。

神に対して罪を犯す者は、罪に対する神の怒り、神の罰を受けなければならないことを教えられます。

罪からの救いを3つの点から考えることができます。

 

(1)罪に対する裁きからの救い

 

→罪からの救いの第一は、罰を受けることからの救いです。

罰を受けないですむようになることです。

罪の赦しを受けることです。

 

→私は若いとき、タバコを吸っていました。

体によくないことは知っていましたが、やめられません。

ある時、咳き込み、ハンカチで口を押さえました。

咳き込みが落ち着いて、ハンカチを見ると血がべったりついていました。

私は恐ろしくなりました。

その頃教会に通っていましたが。まだ洗礼は受けていませんでした。

自分は神から与えられたこの体を大切にしなかった。

自分は罪を犯したと悟り、怖くなりました。

罪赦され、健康上の問題が何も起きないことを願いました。

このことがきっかけで洗礼に導かれました。

罪からの救いの第一は、犯した罪に対する罰を受けないですむようになること、罪の赦しを受けることです。

 

(2)悪の力からの救い

 

→罪からの救いの二番目のことに移ります。

アダムとエバは罪を犯しました。

彼らが木の実を食べる前、

蛇が登場し、エバに語りかけました。

蛇は、「善悪の知識の木の実を食べると、

神のように賢くなることを神はご存じなのだ」と言います。

暗黙の内に、神はあなたが賢くなるのを望んでいないのだ、と語ったのです。

さらにエバが木の実を見ると美味しそうでした。

それでエバは木の実を食べ、アダムにも木の実を与え共に食べたのです。

このことは、私たちに罪を犯すように働きかける「悪の力」というものがあることを教えています。

 

→使徒パウロは、このロマ書の中で、人は罪の奴隷であり、罪の支配下にあると書いています。

罪という言葉には、人に罪を犯すように働きかける「力」という意味もあります。

パウロはこの罪を擬人化して語ります。

罪は神の律法を利用して、人に罪を犯させるというのです。

神の律法が、「してはいけない」と言えば、「やってみたい」との思いを起こさせます。

神の律法が、「しなさい」と言えば、「やりたくない」との思いを起こさせるのです。

この罪の力、罪の働きかけを受けて、

人は罪を犯してしまいます。

 

→パウロは神の律法を守ろうとする人の告白を7章で書いています。

 

ローマ 7:15

わたしは、自分のしていることが分かりません。

自分が望むことは実行せず、

かえって憎んでいることをするからです。

 

→自分の望む善、それは神の教えを守ることです。

自分が望む善を実行せずとは、神の教えを守らないことを意味します。

神の教えを守ろうとしても守ることができないというのです。

それは罪が私たちの心に働きかけるからだとパウロは教えています。

私たちのうちには善がなく、罪が住んでいるとさえ言うのです。

 

→また外から誘惑が来て、罪を犯すように

私たちに働きかけます。

このように罪を犯すように働きかける力に負けてしまう人を

罪の奴隷と言います。

あるいは罪の支配下にあると言います。

人は皆だれもが罪の奴隷であり、罪の支配下にいます。

このような罪の奴隷状態からの解放、

罪の支配下からの脱出、

これが罪からの救いの第二のことです。

 

(3)汚れた心

 

→人が罪を犯す理由に、人の心が汚れているからという理由もあります。

禁じられた木の実を食べた二人に

神はなぜ食べたのか、と問います。

するとアダムは、

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、

木から取って与えたので、食べました」と答えます。

正直に自分の過ちを認めません。

まず女が与えたから食べたと、女のせいにします。

さらに、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と

神にも責任があるかのように語ります。

女も「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えます。

自分が神の教えを破ったと正直に認めようとしません。

責任転嫁をしています。

これは汚れた心というべきです。

このような汚れた心が清められることも罪からの救いです。

 

→パウロは次のように人間の汚れた心について語ります。

 

 1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

 1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、・・・

 

→罪を犯した結果、心の汚れが色々な形で生じ、現れるのです。

 

→アダムとエバは罪を犯して堕落しました。

それなら救いは堕落以前の状態に戻ることです。

彼らは罪を犯さないでエデンの園で生きていたのです。

ですから罪からの救いとは、次の三つです。

  • 罪がもたらす神の罰を受けないこと、罪の赦しを得ること。

②罪を犯すよう働きかける力から解放されること

③心の汚れから心が清められること。

 

2.福音は神の力

 

→16節。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」とあります。

 

→ではどのようにして罪からの救いが実現するのでしょうか。

福音は喜びの知らせという意味です。

喜びの知らせ、それは人間を救うという神の約束を告げます。

神はその力を発揮し、約束を実現させ、人を救うのです。

 

→そこで救いをもたらす神の約束を知り、

それを信じることがとても大切となります。

聖書には、神に救いを求めて叫び、

神から救いの約束を与えられた人たちのことが書かれています。

それは旧約聖書・出エジプト記に登場するイスラエル民族です。

イスラエルの人たちはエジプトに住んでいました。

彼らはエジプト王の奴隷であり、長い間苦しい生活をしていました。

奴隷の苦しさからの救いを求めて彼らは神に向かって叫びました。

その叫びが神に届き、神はイスラエルを救うために行動を起こします。

 

→まず神はモーセという人物を選び出します。

羊の群れを率いていたモーセに神は

「モーセよ、モーセよ」と声をかけます。

そして神はモーセに語ります。

 

出エジプト記 3:7~8

わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 

→神は約束したのです。イスラエルの民をエジプト人の手から救い出すと。

つまりエジプト王の奴隷状態から救い出すと約束します。

さらに「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地」に連れて行くと約束しました。

 

→神はその力を発揮し、約束を実現させます。

その結果、救いが実現します。

 

→旧約聖書には、神がイスラエルの民をエジプトから解放し、

約束の地に連れて行ったことが書かれています。

ここで大切なことは神の約束を徹底して信じ抜くということです

 

→約束の地に行く途中で、イスラエルの民は困難に直面しました。

食物がなくなったり、飲み水がなくなったり、

敵が攻めてきたりするなどの困難に直面しました。

すると多くの民は、エジプトにいた方がよかったと文句を言うのです。

その結果、文句を言った人たちは、約束の地に入ることができませんでした。

神の約束を信じるなら、約束の実現を目指す歩みを続けることが大切です

神の約束を信じて生きることの大切さを知るために

この出エジプトの出来事を語る聖書を読むことは有益です。

 

→罪からの救いもまた神の約束です。

福音は良い知らせ、

罪から私たちを救うという神の約束を知らせる良い知らせです。

罪からの救いの第一、罪に対する罰を受けないことについては、

 

ローマ 3:24

人は皆、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

義とされるとは神の前に正しい者とされることを意味しています。

神はその人を正しい者と見なすというのです。

正しい者と見なすのですから、そこには罪の赦しが含まれています。

神は正しい人を罰することはしません。

赦しを受けるなら、罪に対する罰は受けません。

 

罪からの救いの第二は、私たちに罪を犯させようとする力からの解放です。

 

ローマ 6:6

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 

→あるいは

 

6:17~18

あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、

罪から解放され、義に仕えるようになりました。

 

 神は私たちを罪の奴隷状態から解放し、私たちは罪の奴隷にならないと約束してくださいます。

 

罪からの救いの第三、心の汚れからの清めは、罪から解放されたのなら、実現します。

 

 6:22

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

 

→罪から解放されたら、聖なる生活の実を結ぶことが約束されています。汚れからの清めも実現します。

 

→神は真実なお方で約束を実現するお方です。

約束を実現する、そこに神の力が現れます。

それゆえ神の約束を信じ抜く、約束の実現に向けて生きる、

その時、罪からの救いの約束は実現します。

福音は、救いをもたらす神の力です。

 

→最後にパウロの祈りを紹介します。

 

エフェソ1:19

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、

 

 もしあなたがキリストの復活を信じるなら、キリストを復活させた神の力が、あなたを罪から救うことを信じてよいし、

信じる方が信仰者として忠実だと思います。

これは本当に良い知らせではないでしょうか。

私も、私たちを罪から救う福音を恥としません。この福音を誇りとします。