ローマの信徒への手紙 10章17節
実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
何かを信じている人を信仰者と呼ぶなら、この世の人は皆、信仰者です。天気予報で雨が降ると聞けば、人々は傘をもって出かけます。天気予報を信じてのことで、まさに聞いて信じています。
私の小さい頃、祖母が亡くなりました。小さかったので実はよく覚えていませんが。その頃から死を意識しだしました。そして死ぬのは怖い、という「死の恐怖の奴隷」(ヘブル2:15)になりました。大学生の頃から、生きることの空しさが心を支配するようになりました。最後は死ぬのなら、何をしても空しいとの思いがいつも心の底にありました。その思いにふたをし、何事もないかのように生きていました。
誘ってくださる方がいて(礼拝に誘うことは大切な伝道です)、教会に行き、やがて洗礼を受け、復活の希望、永遠の命を信じました。でも心が晴れないのです。相変わらず死が恐ろしいのです。我ながら情けない思いがしました。
復活の希望、永遠の命を信じているつもりでいました。しかし、心の底では、実は「死んだらおしまい、死んだら自分の存在は消える」ということが本当だと信じていたことに気がつきました。「死んだら一巻の終わり、自分の存在は無になる」と信じる根拠は何だったのでしょうか。
誰かから聞いた言葉なのです。それを真実だと信じてきたのです。死んだ人は姿を見せないという経験も、真実だと思わせました。信じる根拠が、ただ聞いて信じていたに過ぎないと分かった時、目から鱗が落ちました。それほど真理性があるわけではないと分かったのです。
復活の希望があるのか。死んだら無となるのか。両方とも聞いて信じるのですが、どっちが確かなのか。私はキリストの言葉を確かなものとしました。私たちの「信仰」は、キリストの言葉を聞くことによって始まることに気がついた時、平安と喜びが訪れました。