聖書 マルコ 14:27〜31
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
聖書黙想
黙想>27節。イエスは弟子たちが躓くことを、弟子たちに告げた。それは何のためか。
★第一に、実際に弟子たちが躓いた時、イエスは知っていたことを弟子たちが知るためである。弟子たちが躓いた時、イエスに合わせる顔がないとか、罪責感を抱いた時、イエスが知っていたと知ることは、意味がある。イエスはさらに「あなた方より先にガリラヤに行く」と話され、躓く弟子たちを責めることははひと言も話していない。弟子たちは躓いた時、「あなた方より先にガリラヤに行く」というイエスの言葉を思い出し、ガリラヤに行き、イエスに会うことができる。このイエスの言葉には赦しがある。つまり、我々は、イエスの赦しの中で生きることが許されているということである。
★第二に、それはイエスの目的ではないと思うが、予告されたことは微妙に行動に影響を与える。躓きそうな場面になり、イエスの言ったことを思い出したら、どうなるのだろうか。
御子>28節。イエスは、復活した後、ガリラヤに先に行くと言った。つまり、ガリラヤで弟子たちを待っていると語ったのである。弟子たちは躓き、イエスなど知らない、と裏切るのである。しかしその弟子たちをイエスは待っているというのである。
★相手が不実を働くことを承知の上で、それを責めず、赦し、待っていると言われる。
★もし我々が、人の心を知ることができ、信頼している人物が自分を裏切ることになると知った時、どうするだろうか。まだ裏切り行為を働いていないのだから責めることはできない。人の心は見えないというのが暗黙の了解だから、「私を裏切るつもりだろう」と言って、相手が「そんなことはない」と言えば、それまで。裏切る気持ちのあることを立証することはできない。
★相手が裏切る気持ちのあることを知ったら、平安な気持ちではいられないし、相手を受け入れる気持ちにはなれない。イエスのように、赦し、待っている、などとはとうてい言えない。それが我々人間だ。