クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.8.1)
聖書 マタイ 5:13〜16 地の塩、世の光とされている幸い


 クリスチャンは立派な人でなければならないのでしょうか。確かに今日の聖書には、

「人々があなたがたの立派な行いを見て」

とあり、クリスチャンは立派でなければならないと読む人もいます。


 クリスチャンは立派な人でなければならない、これは誤解だと私は信じています。いや聖書に照らして間違った考えだと思っています。クリスチャンというのは、立派な人である、という間違った考えがどれほど、信仰者から喜びを奪ったことでしょうか。またクリスチャンになろうとする人たちにためらいを与えたのではないでしょうか。
今日の聖書で、

「あなたがたは地の塩である。世の光である」

とあります。本音を言えば、そんな風には呼ばれる自信もないし、そんな風に呼ばれるのはいやだ、いや迷惑だ、と思う人もおられるかもしれません。どうですか。

「あなたがたは地の塩である」

とあります。塩というのは物が腐るのを防ぐ役目があります。魚を塩漬けにして長く保存できるようにするのは普通のことです。塩が塩味を無くしたら役に立たないというのは理解できます。地の塩として、信仰者の存在と働きは、社会を腐敗から守るというのです。あるいは、教会の存在と働きは、社会を腐敗から守るというのです。

「またあなたがたは世の光である」

と書かれています。光ですから、人々に道を示し、希望を与える役目を果たします。イエスご自身も「私は世の光である」と語られました。そして私たち一人一人が、また教会が世の光であると仰せになりました。まずここで注意したいことは、

「あなたがたは地の塩になりなさい」
「あなたがたは世の光になりなさい」

とは書かれていないことです。地の塩、世の光は、クリスチャンが目指すべき目標ではないということです。そうではなくて、

「あなたがたは地の塩である。世の光である」

とイエスは断言されたのです。クリスチャンは、地の塩なんだ、世の光なんだ、と宣言されているのです。

「イエス様、それは間違いです。私は地の塩ではありません、世の光ではありません」

と言いたくなるかもしれません。自分が地の塩だなんて、世の光だなんて、なんか大それたことのように思えます。自分はそのように呼ばれるに値しない、と思えるかもしれません。だから、

「あなたがたは地の塩になりなさい」
「あなたがたは世の光になりなさい」

と言われる方が理解できるのです。


 「あなたがたは地の塩である。世の光である」というのは、不可解に思えるかもしれません。聖書には、不可解な言葉がいくつもあります。イエス様を信じる人は、神の子である、と書かれています。あるいは罪から清められている、とも書かれています。さらには、新しく生まれた存在であると書かれています。そして今日の聖書では、地の塩である、世の光であると書かれています。


 つまり、これは、神様の目に、私たち信仰者はどのように見えるのかを表しているのです。神様は、私たちを神の子と見ているし、罪から清められた者と見ているし、新しく生まれた者と見ておられるし、地の塩、世の光と見ているのです。神様は、私たちのことをそう見ているのです。どうしてそのように見るのでしょうか。イエス様を信じる者には永遠の命が与えられているからです。私たちは新しい者にされたのです。


 そこで問題は、私たちが自分のことをどう見るのか、ということです。ここで私たちには二つの内いずれかを選ぶことになります。神様が私たちを見るように自分を見るのか、それとも自分の目に見える自分を自分とするかです。言い換えると、永遠の命を受け取って、新しい人とされていることを信じるかどうか、です。


 聖書が告げる神は、明確に私たちをどう見ているのかを述べます。世の光だ、地の塩だ、と。だから神様のおっしゃる通りだと受け入れることが、実は信仰の出発点なのです。神様のおっしゃることを信じないで、何を信じるのでしょうか。自分にそう思えるかどうかは関係ないのです。
神様が私たちを見るように自分を見る時、私たちには、自由と喜びがあります。まず単純にうれしいです。神様が私たちのことを神の子とみてくださるのです。次に、自由があります。私たちは人が自分のことをどう思うかを気にしなくてすみます。また自分をよく見せようとする必要もなく、そんなつまらない努力をしなくてすみます。人の目を気にしない自由を与えられます。
信仰者とはどういう存在なのか、神様がおっしゃるところにかたく立つことが大切です。そこから自由と喜びのある信仰生活が始まります。これが救われて生きるということです。


 私たちは、聖書が告げることを真理と信じます。私たちの目に、自分がそう思えなくても、神様がおっしゃるならそれを信じるのが信仰です。不思議なことですが、聖霊が導いてくださる時、信じることができるようになります。そして自由と喜びが与えられます。ですから聖霊の導きを求めてください。

「神様、あなたが私を見る目で、私が自分を見ることができますように」

祈り求めてください。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」

と言われますが、塩とは何のことでしょうか。光とは何のことでしょうか。それは、神の言葉と言ってよいでしょう。詩篇にこうあります。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119:105)。

 私たちが神の言葉に従って生きる時、私たちは地の塩となり、この世を腐敗から守ります。あるいは世の光となり、この世の人々に希望を与え、道を示します。塩も光も神の言葉です。私たちが、神の言葉である聖書が教えるように考える時、つまり、私たちの考えが聖書と一つになっていく時、私たちの塩味は、強められ、私たちはさらに明るく輝くようになるのです。


 人間は自分が考えるように行動します。聖書の言葉が告げるように物事を考えるようになれば、私たちが聖書の言葉の通りに行動するようになります。私たちの感情も、考えについて行きます。
ところが私たちは、聖書はそう言うけれども、私はこう考えると主張するのです。聖書が言うこと、それは神が私たちに語ることです。ですから、私たちは、神様はそう言うけど、私はこう考えると主張し、そして行動するのです。聖書はそれを罪と言います。信仰とは神様との交わりであり、神と共に生きていくことですから、神と考えを、思いを一つにしないと信仰生活はうまくいきません。神様と考えや思いを一つにしようとしないなら、あなたは聖書の神を信じているのではなく、自分に都合のよい神を頭の中で作り出して信じていることになります。
ここでも

「聖書の言葉を神の言葉と信じて聖書を読むことができますように」

と祈ることが大切です。このように祈りつつ私たちは聖書を読みますし、読みながら祈ります。そうしているうちに、聖霊の導き、つまり神の導きによって、聖書が神の言葉であると信じられるようになり、聖書の言葉が神の言葉となって私たちの心に迫ってくるようになります。
礼拝の最後の祝祷で、「聖霊の親しき交わりがあるように」との祝福の言葉は、本当に大切な祝福なのです。


エスの言葉で、本当に重要な言葉があります。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ7:17〜18)。

 良い木が良い実を結びます。悪い木が悪い実を結びます。大事なのは、良い木か、悪い木か、です。良い木とはどのような木のことを言うのでしょうか。良い木とは、神様のおっしゃったことを真理と信じる人のことです。永遠の命を与えられ新しくされたと信じる人のことです。つまり、自分が世の光であり、地の塩であることを信じる人です。神の子であり、新しく造られた者であり、罪から清められたものであると信じる人です。さらに言えば、「あなたが価高く尊い
という神の言葉を信じて、人の目を恐れず、自分をよく見せようとしない人です。神の言葉を信じるとは、自分の考え方を聖書に合わせる人です。


 これと逆な人が悪い木です。自分は神の子と呼ばれるにはふさわしくない、世の光なんてとんでもないと考える人です。少しでも自分をよく見せなければならないと考える人です。人の目を恐れる人です。


 良い木が良い実を結ぶ、これが真理なのです。クリスチャンにとって大事なのは、自分がいかなる存在だと考えるか、なのです。行動は後からついてくるのです。感情も後からついてきます。
クリスチャンは立派でなければいけない、そう考えて、立派な行動をしようと努力しますが、行動だけを変えることはできません。自分がいかなる存在だと考えるか、私たちの考えを変えないと行動は変わりません。


 私たちには、神様から与えられているものがあります。神から与えられているものを賜物と呼びます。私たちが与えられている賜物の一つは、聖書であり、神の言葉です。私たちは神の言葉によって生きればいいのです。私たちが神の言葉に基づいて考え、生きていくなら、私たちの塩味は失われることなく、神の言葉は、私たちの光として輝きます。ですから、私たちは自分に与えられた賜物を生かせばよいのです。自分で勝手に、立派な行いとは、ああいうものだと決めつけ、それは自分には無理だなどと思う必要はないのです。自分に与えられた賜物によって生きる時、人それぞれに立派な行いをしているのです。神子が神の言葉によって生きる、それは自然なことです。

そもそも

「立派な行い」

とはどんな行いのことを言うのでしょうか。それは光を人々の前に輝かせる時の行いを言います。つまり、御言葉によって生きる時の行いが立派な行いとなります。


 なぜ、私たちの行動によって、人々が神を崇めるようになるのでしょうか。クリスチャンの立派な行いとは、人々の目を惹く、誰もが賞賛するような目立つ行為とは限りません。むしろ私たちの日常生活のささやかな行動の中にも現れるのです。私たちの行いは神の言葉に従うゆえに、人々の行いとの違いが現れ、人々の注意を惹くのです。


 もし私たちの行動が、人々の賞賛を浴びるような行動なら、人々は、神を崇めるのではなく、私たちをほめるでしょう。だからここでいう立派な行いというのは、私たちの行いが神の言葉に従う行いの時です。それが人々の注意を惹くから、人々の心が神に向かい、神を崇めるようになるのです。

 私たちは自分が何者であるのか、どんな存在とされているのか、それをわきまえていけば、自ずとふさわしい行動が生まれ、実を結ぶのです。良い木が良い実を結ぶと信じ、私たちはキリストのゆえに、良い木とされていることを信じましょう。良い木は良い実を結ぶのです。聖書の言葉、御言葉によって生きる、それによって、私たちの光を人々の前に輝かせることができます。

祈り

 天の父、あなたを崇めます。あなたが私たちのことを地の塩、世の光と呼んでくださることを感謝します。それは身に余る光栄ですが、あなたがそのように私たちを見ていてくださることを喜びます。そして地の塩、世の光として、今の自分にできることをしていきます。あなたの御言葉に立ち、あなたの御言葉を行います。私たちの行いが、あなたの御言葉を輝かせ、私たちを見た人々があなたを崇めるに至るように祈ります。
イエス・キリストの御名によって。