クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


 今日は月曜で祭日。娘に勧められた映画を見に行った。『永遠の0』。原作の本が発売されたとき、なぜか、僕はこの本を購入し読んだ。よくできた物語というのが読後感だった。そして今日映画を見た。映像は迫力があり、映画が終わったとき、うっすらと目から涙が出ていた。
 主人公は二人。姉と弟。祖母が死んだ。二人の母は祖母の最初の夫の子。夫が戦死し、祖母は再婚した。二人は、祖母の最初の夫がどんな人であるかを調べる。祖父は、零戦パイロット、しかし、祖父を知っている人からは、祖父は、臆病者と言われる。最後は祖父がどんな人であったかが分かり、物語は終わる。
 この映画を見て二つのことを強く感じた。一つは、特攻隊で若者が戦死した。誰がどんな理由で戦争を起こしたのか、それをはっきりさせることは大事だということ。戦争に大義があるか否か。戦争は絶対反対という立場もあるだろうが、聖書には神が戦いを導く場面も描かれている。正義の戦争というものがあるのかどうか、大切なテーマであると思う。戦後の日本は、争いを解決するための手段としての戦争を行わない立場を選択したことは忘れてはならない。
 今ひとつは、人間の持つ強さについて。彼は部下の兵士を守るために、上官に対して部下の弁明をし、上官からいやというほど制裁を受ける。彼は、<死にたくない>と語り、周囲から臆病者と非難される。でもただの臆病者でないことはあきらかである。人は自分の命の危険を覚悟しても、なすべきことができるのはなぜなのか。聖書にはイエスの弟子のペトロが、身の危険を感じて、師であるイエスを裏切っている。後にペトロは、迫害を恐れず、イエスを宣べ伝えている。ペトロの中に何が起きたのか。

真理とは人格的なものであり、人格的な真理が人に自分の命を惜しませない力を与える。

こんな言葉が頭に浮かんだ。この真理のために、人は自分の命をささげることができる。