クリスチャンの敬老会に招かれて祝辞を述べることになりました。80歳を越える方たちに祝辞を述べるのです。何を語ったらいいのかと思案します。私自身後期高齢者ですから、自分自身に祝辞を語るつもりになればいいのですが、思案します。
80歳を超えているとは、いつ亡くなってもおかしくない状況にいるということです。そしてクリスチャンにって死ぬとは、神さまのもとに召されることですから、喜ばしいことです。
「皆さん、長い人生を歩んでこられました。神さまの祝福を得て長生きをすることができてよかったですね。おめでとうございます。今や人生のゴールインが間近に見えてきました。皆さんを待っているのは、ゴールのテープを切って神さまのもとにゴールインすることです。待ちに待ったこの時がいよいよ近づいています。おめでとうございます」。
今ひとつ、何か足りない感じがします。
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中でこんなことを書いています。
フィリピ 1:23
わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
パウロは、この世を去ってキリストと共にいることを願い、早く世を去りたいとさえ言います。パウロのように早く世を去ってキリストと共にいたいと考えるキリスト者はそんなに多くないと思います。私はそんなに急いでキリストのもとに行く必要はないと考えますが、パウロは違います。人それぞれの考えがあることを思います。
私は今すぐ世を去って神のもとに行かなくてもいい、と考えます。神のもとに行くことは幸いなことであり、うれしいことです。でも急ぐ必要はないというか、許される限りこの世にいて、この世の生を有意義に過ごしてもいいんじゃないかと思います。
でも同時に別な思いがあります。この世界に未練はありませんが、この世を去るのは一抹の寂しさを感じます。不安を覚えます。このような思いに対して、どんな祝福の言葉があるのかと思います。これが欠けると祝福の言葉として不十分な気がしました。
老いたキリスト者にとって老いを生きるとは、御国に迎えられる希望を確かにすることであると、考えることができます。そうすれば世を去る寂しさや不安はありますが、神さまに導かれた人生のゴールを迎えることをいよいよ喜ぶことができるのではないかと考えます。
キリストにより救われ、神さまに導かれてきた人生を感謝をもって振り返るとき、父なる神さまと会うこと、イエス・キリストに会うことができる人生のゴールを喜びをもって迎えることができるのではないでしょうか。
このような提案を祝福の言葉にしたいと思いました。