クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書黙想 マタイ福音書 7章1~5節 人を裁くな

聖書黙想の紹介です。

 7:1~2
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 7:3~5
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

 1~2節の裁くなとの命令と、3~5節のおが屑をとる教えは、もともと別な教えであったと思われます。ルカ6章37節以下ではこの二つの教えは別物とされています。

 「裁くな」の命令。自分が他者を裁けば、同じ理由で自分も裁かれるからと警告されます。私たちが人を裁く場合、自分の心の中でなされることがあります。私たちは自分の思いの中で人を裁くのです。あの人はこういう人だと否定的な見方をし、あるいはその行いを批判します。別のケースでは、裁く思いを別の他者に告げます。ある意味それは悪口を言うことになります。

 人を裁く理由、そのものが自分にも当てはまるから人を裁くなとイエスは教えます。もし人を裁く思いが生じたなら、その裁きが自分に当てはまるかどうか、吟味することが大切となります。当てはまるなら、自分を変えなければなりません。また裁く思いが湧いたら、その人のために執り成しの祈りをすることが大切だと私考えます。その繰り返しが、裁く思いから、私たちを解放すると信じます。

 3~5節は、他者の欠点を見つけたら、それをその人に忠告することについての教えです。イエスは忠告する前に、自分の欠点に目を向けるように教えます。私たちが見つける他者の欠点。私たちが気づかない、それ以上に大きな自分の欠点。他者から見れば、私の大きな欠点は目につきます。私が他者の欠点を見て忠告するなら、相手もこちらの欠点を見て忠告することができます。実際には、こちらが忠告すれば、相手は反発を感じることが多いと思います。あなただって欠点があるのにと反発します。他者に対する忠告はよい結果をもたらすとは限りません。

 自分の欠点、自分の目から丸太を取り除くなら、はっきり見えるようになるとイエスは教えます。何が見えるようになるのでしょうか。おそらく相手を思いやりをもって見ることができるようになるのではないでしょうか。そのようにして相手に接する中で、相手も自分の欠点に気づいていくようになるのではないかでしょう。

 二つの教えが一つの段落に組み込まれています。心の中で他者を裁くこと。相手に忠告すること。いずれも、このようなことをするのは偽善者だとイエスは教えます。自分のことを棚に上げて他者を批判する、そこには優越感があるかも知れないし、自分を誇る思いやプライドが潜んでいるように思います。

 聖書という鏡によって自分を見ることが大切と考えます。この鏡がなければ人は自分を肯定しがちであり、他者の欠点に目を向けがちとなります。

何の花? 

 

また失敗

 オレオレ詐欺みたいな詐欺に自分は引っかからないと自認している人がだまされるという話しを聞きます。私も自分は引っかからないと思っています。でも、ある瞬間、頭の中にスイッチが入ると思考が停止し、だまされることが起きるのではないかと今日、思わされました。

 日本聖書協会から、聖書協会共同訳という新しい翻訳の聖書が発売されています。私が礼拝出席している奈良高畑教会では、礼拝で用いる聖書を聖書協会共同訳に切り換えました。私は、発売されてしばらくしたときに購入済みです。最近文字の大きさが気になり、大型の聖書が欲しくなりました。聖書を買うのは人生でこれが最後だから革装の大型聖書を購入することにしました。

 amazonで見ると品切れとなっていました。念のため日本聖書協会のサイトで見ると版元品切れです。キリスト教書店なら、在庫があるかも知れないと思い問い合わせをしましたが、2店舗とも在庫なしの返事でした。

 何の気なしにもう一度amazonで見ると、何と購入できるとありました。在庫が見つかったのかも知れないと思い、購入しました。そして今日届いたのです。手に取ってみて唖然。背表紙には「聖書 新共同訳」とあります。翻訳としては聖書協会共同訳の一世代前の聖書です。私がずっと使ってきた聖書です。「あっ、ちゃあ、間違えた」。アマゾンから来た注文確認、メールを見ると確かに「新共同訳聖書」とあります。メールをきちんと見ていれば、注文を間違えたことを知り、すぐにキャンセルできたはずでした。

 amazonのサイトで見たとき、購入可能とあり、「共同訳」という字が見えたので勘違いしてしまいました。購入できるのは、神さまの導きか、とぬか喜びしてしまい、注文したのです。注文確認メールはろくに見もしないで、到着を待っていたのです。

 早速、キャンセルの手続きを行いました。amazonからのメールにQRコードがあり、ファミリマートに設置されてFamiポートなる機械にQRコードを読ませれば、送り状が出てくるので、返送すればよいとのことでした。

 しかしFamiポート前に立ちましたが、どう操作したらいいのか分かりません。結局店員さんに声をかけて、操作をしてもらい、無事返送手続きをすることができました。店員さんに対する感謝の思いがこみ上げてきて、「ありがとう」と言って店を出ました。

 amazonのサイトの画面をきちんと見ないで、品切れのはずが在庫が一冊見つかったのかも知れないと思った瞬間、思考停止、正常な判断が失われました。送料の分だけ引かれますが、返金してもらえます。よかった。勉強になりました。誰にでも、思考停止スイッチが入る可能性はあるのですね。

バラ 馬見丘陵公園

 

礼拝説教 天のふるさと

 一昨日、説教奉仕をしました。その教会の牧師先生が入院されたのです。緊急応援です。読んでいただけるとうれしいです。

 

創世記12章1~2節
ヘブル 11章1~2節、8~16節
説教   天のふるさと

0.導入

→以前、祈祷会で、ある方が「信じるしかない」と発言されたことが忘れられません。
聖書が語る、死を越える希望について、「信じるしかない」と発言されました。
「信じるしかない」。これはさびしい答えだと思います。
それに対して何と言ったらよいのか、ずっと宿題になっていました。
今日はその宿題の答えを出せたような気がします。
死を越える希望を「教え」として受けとめるのではなく、
「神の約束」として受けとめるなら、うれしい希望となるのではないでしょうか。
そこで神の約束に生きた人を紹介したいと思います。
その人は、神の約束の実現を希望にして生きた人です。
信仰の父と呼ばれるアブラハムです。

→今日読んだヘブライ人への手紙11章1~2節をもう一度読みます。

11:1~2
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
まだ見ていない事実を確認することである。
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

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詩編 第一篇 主の教えを喜びとし

 歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。

いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 私の心に響くのは、
「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」
です。

 洗礼を受けた頃は、讃美歌を覚えようとレコードを買って讃美歌に親しみました。牧師になってある時から、ワーシップソングと呼ばれる曲に親しむようになりました。『いのちのパンⅠ~Ⅳ』と題したCDがミクタムという会社から販売され、よく聞きました。最初に親しんだ曲の中に「主の教えを喜びとし」という曲があります。聖書の言葉をそのまま歌う歌です。

 詩編のこの言葉は、神の言葉を命の糧(かて)として生きる信仰を励まし、また喜ぶように勧めています。私は超教派の集会でディボーションという一つの聖書の読み方を学び、これを身につけました。この詩篇が、「いかに幸いなことか」と語ることに私はアーメンです。

 ディボーションを学び、私は聖書の言葉を自分の思考の土台としました。人間の経験、知恵よりも聖書の言葉を土台とするようにしました。その結果、私の心にはいつも平安が宿るようになりました。

 その人は流れのほとりに植えられた木。

 まさに私はこの木のような幸いを得たと思いました。信仰者の生活は、何もかもハッピーになるわけではありません。でも神が共におられることから来る平安と喜びがあります。神のみ言葉に生きる信仰を私は誇りとします。

 詩編第一編は、詩編の巻頭に来るのも理解できます。そして神の言葉によって生きる幸いを約束しています。

 ちなみの youtube で「主の教えを喜びとし」で検索するとこの曲を聞くことができます。

近くの里山で

 

説教奉仕で知る教会の現実

 私が牧師になって最初に赴任した教会は、小さな教会でした。今から40年以上も前です。礼拝出席者が10数名。日本基督教団の中部教区に属する教会で、教区から牧師謝儀援助を受けている教会でした。そのおかげで、私は牧師として生活できる謝儀をいただくことができました。その当時から、私は教会の将来に対して危機感を抱いていました。なぜ危機感を抱いたのか分かりませんが、伝道がなかなか実を結ばない現実を目にしたからかもしれません。

 牧師を引退してからは、礼拝説教を依頼される機会があります。昨年は、A教会に月一回、一年間説教奉仕をしました。牧師が辞任し、牧師がいない状態でした。私のほかに説教奉仕をする方がいました。私と彼でA教会の礼拝を支えたことになります。

 A教会の礼拝に行ったとき、最初礼拝出席者は10名でした。讃美歌の伴奏はヒムプレーヤーで、オルガン奏楽者はいない状態です。福音を伝える説教奉仕は私にとっては喜びであり感謝でした。後任の牧師が備えられるように祈りました。役員をしている男性と礼拝後昼食を食べながら話をしましたが、教会の今後について心配しておられました。果たして牧師を迎えることができるのか。教会員の人数を考えると十分な牧師謝儀を用意でき来ないので、果たして牧師を迎えることができるのか不安を抱えておられました。礼拝出席者が年々減少する現実は否応なく、教会の存続も考えざるを得ません。でも礼拝では、大きな声で賛美をされ、説教を聞いてくださいます。

 11月の礼拝に行ったとき、週報に教会員が亡くなったと記されていました。それから入院した教会員がおられたりして礼拝出席者が6~7名の状態が続きました。その週報には同時に、12月にB牧師が礼拝説教することが書かれていました。どうやら、4月からA教会の牧師になる予定の方のようでした。独身の方で年金を受け取っておられる方と理解しました。教会として用意出来る謝儀は少なくても、生活は大丈夫のようです。ほっとしました。

 B牧師の赴任が決まったとき、教会員の方たちが神さまが私たちの教会を顧みてくださったと深く感謝しておられたのが印象に残りました。教会がいつまで礼拝を続けることができるのか、心配しておられる気持ちが伝わってきました。

 今度の日曜日は、C教会の礼拝に説教奉仕で出かけます。牧会する先生が病に倒れ、緊急の応援です。その教会も礼拝出席者は10名以下です。その先生は高齢であり、もし復帰できなかったら教会はどうなるのか、心配です。

 それぞれの教会が今後どうなるのかは予測できませんが、信徒の方々は毎週神さまを礼拝するために教会に来られます。教会を支えておられます。

ノイバラ 散歩道

 

神の国と神の義

 有名な言葉です。でも「神の義を求めなさい」。これはわかりにくいです。この言葉はマタイ福音書6章に出てきます。あの思い煩うのはやめなさいという段落の最後の方に出てきます。

 何を食べようか、と命のことで思い悩むな、何を着ようか、と体のことで思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる、とイエスは教えられました。

 神の国、これは神のご支配を意味します。神の国を求めるとは、神のご支配があることを信じ、神のご支配の中を生きることを願うことを意味します。神に信頼することを意味します。食べ物や着る物など私たちが必要とするものを神はご存じです。神は私たちの必要を知り、必要を満たす神です。だから食べ物や着る物のことで思い悩むな、との教えは理解できます。

 そこで思います。私は果たして神の顧みに値する人間なのでしょうか。私が神に信頼しても、「あなたはわたしの顧みに値しない」と神に言われたらどうしたらいいのでしょうか。

 私が神の顧みに値するか否か、それは何によって決まるのでしょうか。実は、私たちは罪を犯してきたので、神の顧みを期待することはできません。神の顧みに値しません。しかしイエス・キリストの贖いの死を信じる者は、その信仰のゆえに義とされ、恵みとして神の交わりに入れられ、神との間に平和を得ます。神との交わりにある者の必要を神はご存じであり、必要を満たしてくださいます。

 イエスは信仰義認の教えを語りません。それを語ったのは使徒パウロでした。しかしイエスは、次のように語りました。それは信仰義認の教えと同じではないかと私は考えます。

マタイ 5:6
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

 神の前に義と認められる人は、神との交わりに迎えられます。義に飢え渇くとは、義とされて神との交わりに生きる者となることを切に願うと言ってよいと思います。イエスは、その人たちは満たされるとあります。神の前に義とされて神との交わりに招かれます。神との交わりにふさわしい人、その人は義である人です。

 ですから「神の義を求めなさい」とは、神との交わりに生きることを求め続けなさい、神との交わりにふさわしい人となりなさいとの意味と理解します。神との交わりに生きる人は義なる人であると教えられます。

アジサイ 馬見丘陵公園

 

 

 

 

罪に満ちあふれた世界

 私は近年、この世界が何と罪に満ちあふれていることかと感じます。あるいは罪がいかに人間を支配しているのかと思い知らされます。

 十戒は「殺してはならない」と教えます。テレビのニュース、新聞の報道を見るとき、殺人に関する報道が毎日のように繰り返されています。最近は、飲食店を何軒も経営している男性とその妻が殺され、その遺体が火をつけて損壊した状態で発見される事件が起きました。

 また交際していた女子大学生から別れ話を切り出された男性が、彼女を殺すという事件も起きました。あたかも自分が交際している女性を誰にも渡したくないとの思いで殺したように感じられます。人の命が奪われていく事件が繰り返し発生しています。

 十戒は「盗んではならない」と教えます。人をだまして金銭を奪い取る事件も尽きることがありません。オレオレ詐欺、最近は、有名人を語る投資詐欺が発生しています。人をだませば大金が得られるので、そう簡単にはやめられないし、だます新しい手口が考案され、詐欺事件も続きます。

 十戒は「隣人の家を欲してはならない」と教えます。貪欲になってはいけない、むさぼってはならないとの教えです。詐欺事件でだまされる人の心にも「むさぼる」という問題があります。

 十戒は「姦淫してはならない」と教えます。姦淫が犯罪として摘発されることは少ないようですが、有名人の姦淫がスキャンダルとして報じられることもしばしばです。姦淫は夫婦関係を破壊する可能性が大です。夫が姦淫したので離婚した女優さんもいます。

 十戒は「隣人に関して偽証してはならない」と教えます。自民党の某派閥における裏金問題。この嫌疑をかけられた国会議員たちは「知らぬ存ぜぬ」を通しました。自分を守るために嘘をつきました。国の政治に責任を持つ人たちが、平気で偽証しています。

 ロシアがウクライナに侵略しました。戦争を起こしました。兵士が戦死します。ロシアの大統領は、戦死した兵士は国家のために死んだ、有意義な人生を送ったと語りました。これは言い換えると、「俺は国家の元首だ、俺のすることは正しい、俺のために死ぬ、それはよいことだ」と自分が神になったような顔をしての発言に思えます。自分のために他者の命を思い通りに扱う、何という傲慢な罪を犯していることか。またメディアの活動を規制し、自分に不利な情報は報道させない傲慢。

 ガザにおけるイスラエルの攻撃。イスラエルは国家であり、軍隊を持っています。戦闘機、戦車などの武器を持っています。ハマスは軍事組織。軍隊が持つような武器を持っていません。イスラエルは赤子の手をひねるように軍事攻撃をし、パレスチナ人の命を奪っています。十戒を持つイスラエル民族の首相が人殺しをしていると言ってもよい状況だと思います。彼もまた自分の権力、地位を守るという目的のためにガザを攻撃し、人命を奪っていると言ってよいと思います。権力者の傲慢を思います。

 生きることに息苦しさを覚える人が沢山いる世界、飢餓に瀕している人たちが沢山いる世界、それは罪が支配している世界と言えます。

 この世界を救うもの、それは教育ではありません。世界中で教育が行われていますが、この世界の現実。教育が世界を変えるようには思えません。罪に毒された世界。しかし、だからこそ、神は救い主、神の御子、イエス・キリストをこの世界に送られました。全世界の教会が、強力に福音を宣べ伝えて欲しいと祈ります。同時に神が信仰復興、リバイバルを起こしてくださいと祈ります。

サラサウツギ 馬見丘陵公園