クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 聖徒の交わりを信ず

本日のメッセージ(2009.7.12)
聖書 コリント一12:12〜27 聖徒の交わりを信ず

 礼拝に人々が集ってきます。ここに神を礼拝する群れ、神を信じる者たちの群れがあります。目には人が集まっているだけのように思えます。使徒信条は、「聖徒の交わりを信じる」と述べます。神を信じるというのは、わかりますが、「聖徒の交わり」と告白する時、あなたは何を思っているのでしょうか。


 教会は、神の恵みによって神に召され、信仰を与えられた人々の集いです。聖徒の交わりを信じるとは、

  • 神に召され、信仰を持ち、教会につながった一人びとりの人が、キリストにつながり、賜物を与えられていることを信じるということです。
  • そして、その賜物を用いる時、キリストの体である教会が築かれることを信じることです。
  • そしてキリストの体である教会が何かと言えば、神の住まいです。神の神殿ですね。聖徒の交わりを信じることについてさらに聖書から聞きたいと思います。


1.私は、キリストの体の部分であると自覚する 


 この世には、色々な組織、あるいは団体があります。多くの組織、団体は、明確な目的を持っていて、その目的に賛同する人が集います。たとえば政党。政治理念を同じくする人々が集います。あるいは趣味を同じくする人々が同好会を造ります。こういう組織、団体の場合、参加者は、明確な自覚を持って、組織に所属します。そして組織の働きに参加します。


 ところが教会は、様子が違います。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じると告白し、洗礼を受け、教会につながります。その時、教会がどういう目的を持って存在しているのか、明確に理解しているわけではありません。ましてその目的に参加するという意識を持って、教会につながるわけではありません。ほとんどの人が、イエス・キリストを信じて生きていきたい、イエス・キリストによる救いを受けて生きていきたいという個人的な理由から、教会につながります。


 教会の働きのために、仕えたい、自分を献げたいという思いで信仰に入る人は少数です。多くの人は、教会に連なった時、教会が何のために存在しているのか、教会とはそもそも何なのか、わからないのです。洗礼を受ける時の準備で、教会について教えられるかも知れませんが、教会のことがわかったとは言えないでしょう。教会というのは不思議な存在だと思います。


 ところが信仰を持ち、教会に連なり、信仰生活を送る中で、私たちは、教会の働きに参加するようになります。信仰に入り、救いの恵みに対する感謝が大きくなると、私たちは、教会の働きに喜んで参加するようになります。教会員だから、しなくてはならないという義務感からではなく、喜んで参加するようになります。教会の働きに参加するとは、奉仕することです。そこには金銭的な報酬はありません。


 キリストが私たちに与えて下さる救いは、尊い救いです。それは私たちの思いを越えた救いです。その救いを受けると踊りたくなるような感激を味わうのです。もしくは、心の底に深い平安が満ちるのです。聖書には救いを受けて踊り出した人々のことが書かれています。エジプトの軍隊の追撃から、神様の奇跡によって救われたイスラエルの民は、神を賛美し、踊って喜びました。またエルサレム神殿の美しの門で、乞食をしていた生まれながら足の不自由な男性が、その足を癒されました。彼は、喜び踊り神様を賛美しました。


 キリストが与える救いの恵みは豊かですから、それを受け取りたいと願います。救いの喜びを分かち合うと、救いがいかに豊かなもので素晴らしいものであるかがわかってきます。そして、恵みを豊かにいただくと、感謝の思いから、神に仕え、教会に仕える思いに導かれます。教会の働きに責任を持って関わるようになります。


 このように教会の働きに喜んで積極的に参加する、奉仕する、これは信仰の成長ということができます。その時私たちは、自分がキリストの体なる教会の部分であることを自覚するようになるのです。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。

 イエス・キリストを救い主と告白し、教会に連なった人たちは、キリストの体に連なり、その部分となるのです。そして、自分がその部分であるという自覚が生まれると、教会の働きに喜んで仕えることになります。聖餐式の感謝の祈りにおいて、「私たち、主の体の枝である自覚がいよいよ深くなるように」との祈りがあります。キリストの体の部分であるという自覚は、深まるものであることがわかります。


2.私はキリストの体の部分として、賜物を与えられていると信じる 


 私たちが、キリストの体の一部分として、教会の働きを行う時、必要な能力、力を神が与えて下さいます。この能力、力を賜物と言います。聖書では、聖霊の賜物と言います。


 「聖徒の交わりを信じる」とは、神に召され、信仰を持ち、教会につながった一人びとりの人が、キリストにつながり、賜物を与えられていることを信じることです。私たち一人一人は神様から賜物を与えられているのです。

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ローマ12:4〜6)。

私たちは賜物を与えられているのです。それを信じます。

  • 「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15節)。
  • 「耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(16節)。


 これは、自分の賜物は、大したものではない、と言う人に対する言葉です。人間の目に、小さな賜物、小さな能力に思えたとしても、それは神が与えたものとして受けとめるべきなのです。決して、些細な賜物、無いに等しいものと考えてはいけないということです。


 私は牧師になって思います。教会には、私より、よく祈る人います。私より深い祈りをする人がいます。聖書にどんな言葉があるのか、私よりよく知っている人がいます。私より、思慮深い人がいます。私より、生ける神様の働きに感激している人がいます。自分が小さな者に思えてきます。自分の賜物があるとして、限りなく小さなものに見えたりします。すると自分なんか、と自分を卑下する気持ちが生まれます。しかしそれは間違いです。


 私を神様は教会へと導き、私を愛し、私にふさわしい賜物を与えて下さっているのです。神様は、私たち一人一人を、価高く尊い存在として見て下さり、私たちにそれぞれにふさわしい賜物を与えて下さるほどに、愛して下さっているのです。私たちは自分を卑下してはならず、神様が賜物を与えて下さっていることを信じ抜くのです。

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。

 これは他者の賜物を侮ることです。これは高慢な態度です。

「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。

 弱く見える部分、いらないと思えるような部分もまた神が備えた部分なのです。要らないのではないかと思うのは人間であって、神ではありません。私たちは自分に与えられた賜物を卑下してはならないし、他人の賜物を見下してもいけないのです。多くの部分が集まってからだができるように、キリストの体にも様々な部分、弱いと思える部分もあるのです。


「聖徒の交わりを信じる」と告白する時、私たちは、キリストにつながる一人一人に神から尊い賜物が与えられていると信じるのです。


3.私は、賜物を生かし、聖徒の交わりを信じて生きる 

「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12節)。

 私たちが、つい「要らない」と言いかねないものとして、格好が悪い部分、見苦しい部分、見劣りのする部分があると書かれています。こういう部分を「要らない」というのではなく、逆に、格好良くし、見栄え良くし、引き立たせるというのです。


「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)。

体の各部分は、互いに格好良くなるように、見栄え良くなるように、引き立たせるように配慮するのです。これは愛の働きです。

 弱い部分を「要らない」と切り捨てるのではなく、それを支える愛の働きが大切なんです。そのことが、

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)。

 教会に連なる一人びとりには、弱い部分があるものです。弱みを見せないで、うまくやっているように見せている人がいるかも知れません。しかし心開いた交わりの中で、人は自分の弱さを告白します。子どものことで悩む人、夫婦のことで悩む人、職場のことで悩む人、悩みが昂じて病気になりかねない人もいます。思い煩いや、不安や、赦せない思い、妬み、恨み、怒り、そういう思いに支配され、惨めな思いをしている人もいます。それは、信仰者の現実でもあります。

  • しかし私たちは、人の弱さに共感し、その人のために祈り、励まし支えるのです。
  • あるいは、自分が自分の弱さに対して、どのように神に助けられたのか、聖書の言葉に導かれたのか、あるいは、信仰の友に支えられたのか、分かち合うのです。
  • 経済的な困窮に陥った人を援助することもあります。

・そのようにして、私たちは、弱さを持ちながらも、喜びをもって信仰に生きるのです。弱さを誇るようになるのです。

 自分の弱さ、他の人の弱さは福音の素晴らしさを知るために必要なのです。自分の弱さ、他の人の弱さが、私たちが愛し合うために必要なのです。


 キリストの体である教会は神の住まいです。

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:22)。

 私たちはキリストの体の部分ですが、与えられた賜物を用いて、神に仕え、教会に仕え、信仰の兄弟姉妹に仕えていく時、教会は神の住まいとなるのです。人々は、教会の何を見て神の住まいと考えるようになるのでしょうか。教会の中でめざましい奇跡が行われるからでしょうか。違います。教会の中で、愛を見ることができるからです。


 各自が自分の賜物を差し出して、神に仕える神への愛、人に仕える愛、泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜ぶ兄弟愛。これらの愛を見る時、教会が神の住まいであるとわかるのです。そして、聖徒の交わりを信じると告白する時、私たちは、私たちの教会が神の住まいとなることを信じると告白するのです。そしてそれを目指して、努力するわけです。それが教会に連なって信仰に生きるということです。


 聖徒の交わりを信じるとは、神に召され、信仰を持ち、教会につながった一人びとりの人が、キリストにつながり、賜物を与えられていることを信じるということです。そして、その賜物を用いる時、キリストの体である教会が築かれ、神の住まいとなることを信じることです。


祈り


天の父、私たちを信仰に導き、教会につながらせて下さったこと、キリストにつながらせて下さったことを感謝します。
そして、キリストの体の部分として私たちを生かすために、賜物を与えて下さったことを信じて感謝します。
己の賜物を卑下することなく感謝できるように導いて下さい。
他者の賜物を侮ることなく、他者を敬うことができるように謙遜な心を与えて下さい。
私たちが、それぞれの教会のために賜物を用い、互いの益となるために賜物を用いることができ、教会が神の住まいとなりますように。
私たちの内に現れる愛を見て、人々が、ここは神の住まいだと畏れをもって跪く教会となるように導いて下さい。
イエス・キリストのみ名によって祈ります。