クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.12.19)
聖書 ルカ 2:1〜20 神に栄光あれ


 この季節、クリスマス・カードをやりとりする方もおられると思います。教会からも、この教会に関連する方たちにクリスマスカードを送りました。クリスマスカードには、たいてい聖書の言葉が書かれています。今日読んでいただいた聖書に、

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」

という言葉もよく書かれる聖書の言葉です。「神に栄光があるように」。これは天使の賛美ですが、祈りです。神が崇められるようにとの主の祈りの願いと同じです。この願いを、私たちにとって大切な願いにしたいと思います。この願いを願うところに喜びがあることを知りたいと思います。


 先日、ノーベル賞の授賞式が行われました。日本からも二人の科学者がこの賞を受けました。受賞者の行った研究、その業績がすばらしい意義を持っているということが評価されました。その研究の意義の「素晴らしさ」、その研究の価値の「大きさ」を具体的に現すことはむずかしいです。数値には表しがたいです。そこでノーベル賞という目に見える賞を与えることによって、業績の素晴らしさをたたえ、その業績を上げた人をたたえるわけです。賞金、賞状、メダルが贈られます。賞金は一億円以上と言うから、並大抵の賞ではありません。


 私たちの社会では、名誉のしるしとなるものを与えて、人をたたえます。そしてたたえられることは、とても名誉であり、誇りでもあるわけですね。多くの人は己の栄光を求めて努力します。地位が上がること、商売が繁盛すること、勝利すること、名声を得ることなど、努力します。聖書が教えること、そして信仰者が求めるものは、自分の栄光ではなく、神の栄光です。神さまの素晴らしさをたたえ、分かち合うのです。


 今日の聖書では、天使が登場します。天使というのは神の使いです。救い主が生まれたことを伝えるために天使が羊飼いのもとに遣わされました。天使は言います。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 神が救い主を誕生させたことを伝えたあと、この天使に天の大軍が加わり、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」と賛美しました。天使は、神からメッセージを託され、羊飼いたちに伝えました。そして天使は、神をたたえたのです。天使は神の使いですが、自ら、神をたたえたのです。夜空に賛美が響き渡ったことでしょう。


 神の栄光といっても、具体的でないのでわかりにくい面があります。そこで「神の栄光」を聖書がどう述べているかを見てみたいと思います。たとえば、神は言うのです。

「あなたがたは、朝、主の栄光を見る」。

 これはどういう場面なのかをお話しします。いつも引用しますが、旧約聖書出エジプト記です。紀元前1200年頃、イスラエルの民はエジプトで、奴隷として苦しい生活をしていました。彼らはその苦しみからの救いを求めて神に叫びました。神は、イスラエルの民をエジプトから救い出し、自由に生きることのできる土地へ導くと約束します。そしてイスラエルの民は旅をするのです。イスラエルの民は荒野を旅します。荒野は生きるのにきびしい場所です。食物がなくなります。すると彼らは不平を言うのです。

「我々をこの荒野で飢え死にさせるのか」。

 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言うのです

「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ」(出エジプト記16:6〜7)。

イスラエルの民は、「朝に、主の栄光を見る」、つまり神の栄光を見ると言われています。神は、イスラエルの民に食べ物を与えようとします。それはマナと呼ばれるものです。イスラエルの民が朝起きると、寝起きしているテントの周囲に露が降りているのです。つゆが蒸発するとそこに霜のように、薄くて壊れやすいものが残っているのです。それがマナです。人々はこれを集めて、朝食べるのです。


イスラエルの人々は、朝、神の栄光を見ると言われたのですが、彼らが見るのは、露であり、つゆが蒸発したときに現れる薄くて壊れやすいものです。それを見ることが、神の栄光を見ることだというのです。どういうことでしょうか。つまり、彼らは神の御業を見るのです。それが神の栄光を見ることだというのです。露の存在、薄くて壊れやすいものの存在、それは神のみ業なのです。


 私たちは神が働いている姿を、直接見ることはできません。私たちが見るのは、現象です。その現象の背後に神がおられる、あるいは、その現象は神が引き超したものだと考えるのが信仰です。目に見えない神の働きを受けとめる、それが神の栄光を見ることだと聖書は告げているのです。神の栄光を見るといっても、特別なものを見るわけではありません。信仰の目で神の業を見る、それが神の栄光を見るということだと聖書は述べているのです。


 主イエスはこう言っています。

「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:23)。

 「人の子」とはご自分のことです。主イエスは、ご自分の死、つまり十字架の死は、ご自身の栄光なのだというのです。人間を救おうとする愛の現れ、主イエスの愛が輝いているのが十字架です。自ら進んで、十字架の死を迎える、そこに主イエスの栄光を見る、これは信仰の目で見るのです。信仰に生きるとは、神の御業を見ること、神の栄光を見ることなのです。


 羊飼いたちは天使が言ったことが本当かどうか確かめるためにベツレヘムの町に行き、生まれたばかりの乳飲み子を探し当てました。彼らは乳飲み子を見ました。彼らは神の栄光を見たのです。だから彼らは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った」と書かれているように、神を崇め、賛美したのです。


 私には神の前に悔い改めなければならないことがあります。神の御業、神の栄光を見ない罪です。あたかも神さまが何もしてくれていないかのように考え、勝手に落ち込み、空しさを感じたことです。神を恨んだことです。


 エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地を目前とするところまで来ました。あとは約束の地に入るだけです。ただ一つの問題は、約束の地に強そうな民がいることでした。エジプトからそこに来るまで、命の危機に瀕したとき、イスラエルの民は何度も神に助けられました。だから神が助けてくださることを信じて、約束の地に入れば良かったのです。
しかしイスラエルの民は、約束の地に入れば戦いになり、自分たちは死ぬだろうと考え、約束の地に入ろうとしませんでしたし、「前進しよう」と訴える者を殺そうとしました。
そこで神は言います。

「わたしの栄光、私がエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、私の声に聞き従わない者は、約束の地を見ることがない」(民数記14章)。

大人のイスラエルの民は、約束の地に入ることができませんでした。イスラエルの民は荒野で40年生活することになり、子供世代が約束の地に入ることになりました。もし彼らの目が開かれていたのなら、よかったのに。


 神の栄光を見た人は、神をたたえます。天使もまた、神をたたえました。信仰に生きるとは、私たちを救い、導き、生かす神の御業を見ることです。神の栄光を見ることです。神の栄光を見たら、神をたたえましょう。そのために、神様が私たちの目を開いてくださることを祈り求めましょう。

  • 神が目を開いてくださるのなら、
  • 主イエスが私たちの目を開いてくださるのなら、

私たちは神のみ業を、神の栄光を見ることができるでしょう。

  • 神に罪赦されて生かされている自分がいる。
  • 神の恵みで新しく生まれ変わった自分がいる。

わが身に神の栄光が現れているのではないでしょうか。

  • 教会の中で、信者が互いに愛し合っている。
  • 教会の中に、神に礼拝を捧げる人々がいる。

そこに神の栄光が現れているのではないでしょうか。


 何気ない現実も、神の導きがそこにあるなら、神の栄光を現しているのです。「主の栄光は全地に満ちている」(民数記14:21)。目が開かれて、日々の生活の中で神の栄光を仰ぎ見つつ、神をたたえて生きていきませんか。神に栄光あれ、神さまはすばらしい、と賛美して生きていきていきませんか。クリスマスの喜び、それは神の栄光をたたえる喜びです。共に神をたたえましょう。


祈り
 父なる神様、
「主の栄光は全地に満ちている」とあります。あなたの栄光は地に満ちているのです。私たちの平凡な生活にも、あなたのみ業が豊かにあります。
私たちにあなたのみ業を見させてください。あなたの栄光を見させてください。
そのために、私たちの目を開けてください。あなたのみ業が見えるように、信仰の目を与えてください。
そして私たちも、栄光が神にあるように、と願い、賛美できるように導いてください。