今日読んだヨシュア記にこう書かれていました。
ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ」(ヨシュア記18:3)。
これを読んだとき、午後の読書会のことを思い出しました。今日午後、『老いを生きる』(加藤常昭著)の読書会が教会でありました。いつも5人ほどの参加者で読んでいます。今日のテーマは、愛の共同体としての教会です。人は老いるとエゴを丸出しにして老醜をさらすことがあります。私たちは老いてなお人を愛し、また愛されることが大切である、と書かれていた。その中で聖書の引用がなされていました。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5:5)。
<神の愛が自分の心に注がれている>、これを根拠に日々の生活の中で感じる、ねたみ、恨み、いらだちなどのエゴイズムに打ち勝つ愛の歩みに生きることが勧められていました。
そこで今日は、いつになく熱っぽく僕は話しました。<神の愛が自分の心に注がれている>ことを私たちはどれほど本気で信じているのか。日々の生活の中で感じる、ねたみ、恨み、いらだちのゆえに、私たちは自分が愛の薄い人間であると思い、そこから抜け出せないでいるのではないか。とすると、私たちは信ずべきことを信じないで、信じてはいけないことを信じているのではないか、と語りました。
信仰者は信じます。
- 聖霊によって神の愛が私の心に注がれている。
- それ故、私は具体的に人を愛することができる
- それ故、愛の薄い自分が愛する者へ変えられる
- いらだち、ねたみ、恨みに打ち勝てる
未熟な信仰者が信じていること
- 聖霊によって神の愛が自分の心に注がれているとは思えない。
- 人に対してねたみ、いらだち、恨みを感じるのだから。
- 自分は愛の薄い人間で、愛が身についている信仰者になれるとは思えない。
- 私は罪深い
ヨシュア記の言葉が新たなひびきをもって迫ってきました。
<あなたたちはいつまでためらっているのだ。主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ>。そうです、<あなたたちはいつまでためらっているのだ。主が与えると約束された救いの恵みを受け取るだけなのだ>。神さまの愛が、自分の心に注がれていることを信じることの大切さを宣べ伝えることの大切さを知らされた。