ローマ 6:22
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
この聖句は、信仰者が最終的にたどり着くのが永遠の命であると教えます。これはキリスト者が死んだ後、永遠の命に到着すると教えます。キリスト者には、死後の生があること、その生には限りのないことが教えられます。
マタイ 25:46
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。
イエスは世の終わりにもう一度この世界においでになり、人間を裁きます。最後の審判と言います。人はイエスの前にでていかに生きたのか、裁かれます。そして正しい人たちは永遠の命にあずかるとあります。これもまた、限りのない死後の生に生きることを教えています。
マルコ 10:29~30
イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。
イエスのためにまた福音のために生きる人は、この世で迫害を受けて死ぬかもしれませんが、後の世では永遠の命を受けるとあり、死後の生に入ることが教えられます。
死後の生について、それが具体的にどのようなものであるのか、聖書には書かれていません。聖書は、キリスト者は神の国に迎えられると教えています。そこには神がおられます。
神の国のすばらしさを比喩として、描いている聖書箇所はあります。
ヨハネ黙示録 21:3~4
神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。
聖書は、キリスト者が永遠の命に生きることができるとの死後の希望を語ります。同じことを「神の国に迎えられる」という言葉で聖書は語ります。
讃美歌30番は、キリスト者の信仰を語ります。
かがやくとこ世のあした
わがたまめさむるとき
この世の朝よりきよく
あおぎみん 神のみかお
キリスト者は、神の国に目覚め、神のをみ顔をあおぐという希望に生きることを歌っています。
永遠の命には、今、この世にあって信仰者を生かす命という意味と死を越える生を示す意味と二つの意味があります。