信仰の成長という時、いろいろな成長があります。聖書をよく読み、聖書のことを良く知っている、これも信仰の成長です。聖書のどこに何が書いてあるのか、そして聖句をパッと適切に引用できる信徒の人に出会って驚いたことがあります。あるいは聖書の教え、教理に通じている人がいます。これも信仰の成長の一つといえると思います。謙遜なこころで教会に仕える、それも信仰の成長です。これらは個人的な努力で身につけることのできる成長と言えるのではないかと思います。勿論、信仰の仲間とともに信仰に励んで成長することもあります。
エフェソ 4:13
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
エフェソ 4:15
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
上に上げた聖句が示す成長は、正直具体的にどのような成長なのか、よく分かりません。ただ分かるのは、「愛」が中心にあることです。知識を増やすだけでは、愛において成長することはできません。愛における成長を考える時、大きな問題となるのが罪です。愛そうとする時、罪が姿を現します。示唆的なのは次の聖句です。
テサロニケ二 1:3
兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
信仰が大いに成長し、お互いに対する一人ひとりの愛が豊かになっているとあります。罪に打ち勝って人を愛することができるようになるのは、個人の努力も必要ですが同時に、信仰者が共に努力する時に可能になるのではないかと思わされます。すると愛の努力を信仰者が共に努力する場が、教会の中にあることになります。そういう場面を想像することができるでしょうか。
使徒言行録 2:41~42
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
聖霊が降ったペンテコステの日、ペトロはキリストを宣べ伝えました。そして信じた人が三千人いたとあります。彼らは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあります。これは三千人が集まる集会ではなく、もっと人数の少ない集まりが幾つもあったと考えます。そういう集会が幾つもありながら、なお全体としてのまとまりもあったと想像します。
使徒 2:44~45
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
キリスト者の交わりにおいて貧しい人もいましたが、物質的な分かち合いをしてみなの必要が満たされたようです。互いを愛する愛が働いていました。
コロサイ 3:16~17
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
ここにはキリストの言葉によって生きる信仰者の交わりがあります。聖書を学ぶ交わりがあります。神をたたえる交わりがあり、御言葉に共に生きる信仰者の交わりがあり、共に神に祈る交わりがあります。このような交わりの中でこそ互いに愛し合う信仰者の交わりが生まれるのではないかと考えます。
