クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.5.4)
聖書 コリント一14:26〜40 共に学び、共に励まされ


1.コリント教会から学ぶこと 


 コリント教会の礼拝の特徴は、聖霊の働きが活発なことでした。異言を語る人、預言をする者、啓示を受けて語る人。「はい」「はい」と手を挙げるまもなく、次々に語り出しているのです。礼拝順序があるとは思えません。司式者がいて礼拝を導いているとも思えません。あたかも聖霊が礼拝の司式者であるかのようです。聖霊の導きにゆだねる礼拝であることが分かります。


 人は聖霊に導かれるままに、異言を語ったり、預言を語ったり、賛美を歌ったりしていました。時には、同時に話し出す人もいたことでしょう。礼拝が無秩序になる危険、聖霊の導きを受けていると言って、一人の人が長く話をするという場面もあったでしょう。聖霊に導かれているから、いいではないか、という主張もなされたことでしょう。コリント教会の人々は、聖霊の賜物を重んじていたからです。

 パウロは、無秩序になりがちな礼拝に対して、それは違う、と語るのです。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」(33節)

と語ります。

預言者に語りかける霊は、預言者の意に服するはずです」(32節)

とも語ります。聖霊に導かれるからと言って、聖霊にされるがままになるのではないのです。聖霊に導かれて異言を語るとしても、黙っていようと思えば黙っていられるのです。
礼拝においてあるいは集会において一番大事なのは、

「あなたがたを造り上げること」(26節)

パウロは語ります。聖霊の賜物を与えられ、礼拝において用いられることは大切なことです。


 しかし、聖霊に導かれるままに異言を語り、預言を語ることは目的ではないのです。「あなたがたが造り上げられること」、つまりキリストの体である教会が築かれていくことが目的なのだというのです。私たちの教会とコリント教会では、礼拝の様子は全く違います。「あなたがたを造り上げる」「教会を造り上げる」ことが礼拝の目的、教会でなされる集会の目的であることは共通しています。


2.共に学び、励まし合うことの素晴らしさ 


 パウロは、「あなたがたを造り上げる」と述べます。教会で大事なのは、キリストの体を作り上げることです。言い換えると、

「皆が共に学び、皆が共に励まされる」(31節)

信仰者の交わりを作ることです。このことがなぜ、大切なのでしょうか。


 この14章の最初でパウロは、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1節)と語ります。そして14章の終わりでパウロは、「こういうわけですから預言することを熱心に求めなさい」(39節)と語ります。預言はどんな役割を果たすかというと「人を造り上げ、励まし、慰める」(3節)、「教会を造り上げる」(4節)とあります。
人々が共に学び、励まされる教会、そういう教会が大切なのです。それは、私たちの救いに関わるからです。私たちが救われて生きるとはどういうことかというと、キリストに似た者になるということです。


 堕落した人間が堕落以前の状態に戻る、それが救いです。キリストに似た者になる、それが私たちの救いであり、人間らしく生きることに通じます。人間らしく生きるとは、キリストのように生きることです。


 私たちがキリストらしく生きるために、共に学び、共に励まされることが必要なのです。私たちがキリストのように生きるために、共に学び、共に励まされることが不可欠なのです。そしてそれは、とても素晴らしいことなのです。


 今、金沢元町教会で起きていることを紹介します。祈祷会では聖書を読んで感じたこと、思ったこと、身近に起きたことなどを分かち合っています。学びの中でも、聖書から教えられたこと、聖書から受けた導き、それに従って行動した時に何が起きたのか、等を分かち合っています。「私と神との関係」「自分を受け入れる」というテーマで分かち合ったこともあります。一人ひとりが正直に真剣に神に向かい合って生きている姿の証しを聞く時、涙が出てきます。また自ら涙を流しながら語ります。そういう分かち合いの中で、励まし、慰められることを経験しています。教会で行われる学びは、単なる知識の伝達ではなく、学んだことをどう受けとめるかの分かち合いがなされます。教会の集いの中で、「共に学び、共に励まされる」ことを経験できているのです。ささやかな励まし合いかもしれません。でも、それは素晴らしいことだと思っています。そして私たちは、この分かち合いがどれほど素晴らしいのか、十分には理解できていないのです。


 話は変わりますが、ダイヤモンドの話をします。ダイヤモンドは高価な宝石です。ダイヤモンドは最初インドで発見されたようです。ローマ帝国時代、ローマでは、ダイヤモンドは神秘的なものとして取り扱われていました。正八面体の結晶の持つ神秘性、そして何物よりも硬いという性質、それにはるか遠くの原産地であるインドから風に乗って伝えられた伝説などが色々に混じりあった、神秘的なものでした。

 ダイヤモンドを磨き、美しく加工する技術は、15世紀になって確立したと言われます。その美しさが理解されるようになるまで十数世紀にわたり、ダイヤモンドは宝石の中でも低い扱いしか受けてきませんでした。しかし今や、ダイヤモンドは、押しも押されぬ最高の宝石です。


 ダイヤモンドの原石は、美しい宝石とは言えません。原石を磨くことによって美しい宝石となります。


3.私たちはダイヤモンドの原石 


 そして、何と私たちはダイヤモンドの原石です。磨けば美しく輝くダイヤモンドの原石です。原石を見ていても、それがどれほど美しく輝くのかは分かりません。しかし、輝きの片鱗は持っているのです。研磨の技術が確立して以来、ダイヤモンドは、その美しさを輝かせます。


 そして、私たちはダイヤモンドの原石です。元町教会で行われている集いの中で経験される、共に学び、共に励まされる経験。これはダイヤモンドの研磨です。研磨された結果がどんなに素晴らしいのかはまだ分かりません。素晴らしいということは感じています。


 箴言に印象に残る言葉があります。

「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴言27:17)。

 友人同士というのは影響を与えあい、共に成長していくものです。私たちも、分かち合いを通して、共に成長していくのです。それは素敵なことなのです。


 金沢元町教会の信徒の交わりが、ダイヤモンドのように素晴らしく輝くようになります。一人ひとりは、小さな原石です。一人ひとりは、小さな輝きです。一人ひとりの輝きも、友によって研磨されてさらに輝きを増すでしょう。一人ひとりの輝きが集まると、あたかも大きな原石が磨かれて輝く如く、大きな輝き美しさになるでしょう。共に学び、共に励まされることによって、私たちはこれからダイヤモンドのように福音の素晴らしさを輝かせるのです。


 礼拝以外の教会の集いに参加しませんか。学びに参加しませんか。分かち合いの集会に参加しませんか。仕事で忙しいかもしれません。疲れているかもしれません。約束があるかもしれません。


 でも、今まで知らなかった素晴らしいものがあるのです。あなたの身近に。それはダイヤモンドの原石のように、まだ輝いていないでしょう。しかし可能性を秘めているのです。いや、共に学び共に励まされる素晴らしさを私たちは既に経験しているのです。


 生活でいっぱいいっぱいで、教会の集会まで余裕はないかもしれません。しかし、共に学び共に励まされる経験をする中で、新しい思いで生活をすることができるに違いないのです。生活を新しく築き直すことができるのです。今までの信仰生活をリフォームすることができるのです。信仰を持ってよかったと感激することができるのです。これからの人生を教会に賭けてみませんか。私は牧師としての生涯をここに賭けています。皆さんも賭けてみませんか。