クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 私たちは創造主なる神を信じます。そして自分が被造物なる人間であることをわきまえます。言うまでもなく、被造物である人間は、様々な限界を持ちます。創造主なる神を信じることは、被造物としての限界を受け入れることを意味します。


 ところが限界のある人間は神のようになろうとします。自分の限界を乗り越えようとするのです。自分の人生を自分の思い通りにしようとします。その結果、思い煩いが生じます。思い煩いをやめようとはしません。限界を受け入れたくないのです。


 もしああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと将来に起こりそうなことを予想して、悩みます。自分で何とかしようと思うのですが、思い通りにならなくて悩みます。自分ではどうにもできないことは分かっているのですが、ああすればうまく行くのではないか、こうすればうまく行くのではないかと考え、でもうまく行かないかも知れないと考え、心の中は堂々めぐりです。心の中は心配で満ちてしまいます。


 将来のことは自分ではどうすることもできないとの自分の限界を受け入れ、将来のことは神さまにゆだねればいいのです。それなのに自分で何とかしたいと考え、何とかできるのではないかとの淡(あわ)い期待を抱き、思い煩います。神さまにゆだねることは、何もしないこと、努力をしないことを意味しません。むしろ何をして神さまにゆだねるのか神さまに教えてもらいます。そのようにして努力をし、神さまにゆだねるのです。つまり神さまに信頼するのです。そうすれば、心は思い煩いから解放されます。自分に限界があるから、限界を越えることについては神さまにゆだねるのです。


人間は頭では限界があることを知っていても、心は認めようとしません。限界のある人間を創造した神を受け入れるのを拒む思いが人間にあるように思います。思い煩いが生じるたびに神さまにゆだねることを積み重ねていく、そこに信仰の成長があるように思います。


最近ふと

そうだ、人間は限界のある存在なんだ。
だから神にゆだねるのだ、

と素直に考えようとの思いが芽生えました。限界の受容です。


強い風で倒されるコスモスですが、それでもなお咲いています。