これも鳥羽教会時代のことです。牧師としての歩みを始めて間もない頃のこと、礼拝に見慣れない方が出席されました。礼拝が終わり、
「よく勉強されていますね」
と声をかけてくださいました。ベテル聖書研究会を主催している大柴俊和牧師でした。
当時は注解書も多くはなく、私は英語の注解書を購入し、またキッテル新約聖書神学辞典を購入し、英語の辞書をそば置いてこれらを読み.説教の準備をしていました。「よく勉強されていますね」と声をかけていただき励まされました。私は過ぎ去ったことは大抵忘れてしまう性分ですが、これは覚えています。得がたい体験だったのだと思います。
振り返ってみると私にはほめられた経験があまりありません。少なくとも思い出せるような経験はありません。「お兄ちゃんが○○大学に入学したことを両親は誇りに思っていたのよ」と妹が話してくれましたが、両親が直接私に話してくれた記憶はありません。照れくさかったのかもしれません。
牧師としての現役の歩みを終えて、自分の働きを人からほめてもらった記憶もあまりありません。「よく頑張りましたね」と言ってくれるのは妻だけかもしれません。それでいいと思います。
私が人をほめることを意識するようになったのはずっと後のことです。上の子供たちは社会人になっていましたから、子供たちも私からほめられた経験はないかもしれません。末の息子に対しては、努力しました。自分が認められることはうれしいし、励みになります。
神さまは大柴先生を通して私をほめてくださったのだと思います。私を伝道者に召して下さったイエス様の恵みです。それで私が祈っている祈りがあります。天に召されたとき、神さまから
「よくやった。忠実な僕よ」
と言われることです。