クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


「十六時四十分」(藤掛明著)を読みました。副題に<がんになった臨床心理士のこころの記録とあります。著者はクリスチャンです。線を引いた言葉をいくつか紹介します。以下、引用です。

自分の生き方を振り返るためのワークの一つに、<「あなたの余命が三日なら、あと三ヶ月なら、あと一年なら何をするか>と考えさせるものがある。


 五月の大型連休を悶々と過ごした私だったが、「子供に自分の死に様を見せる」という、考えても見なかった人生の最後の目的があることを知ったことで、気持ちの揺れが不思議なほどおさまるのを感じた。


私の場合、・・・色々な場面で励ましの言葉をいただいた。私に対する、すべての言葉かけには、ありがたい思いがしたし、背後にその人の善意を感じることができてうれしかった。しかし、独特の窮屈感を味わうことも多かった。
「早期に発見できて良かったですね」
「元気そうじゃないですか」。
という言葉が特に多かった。
私自身も病人に言葉を書ける側に立ったとき、前向きに元気づけたいという思いから、状況のポジティブな面を指摘し、励ますということをよくしてきたので、励ます方々のありがたい気持ちはわかった。ただ、私としては、さまざまな複雑な思いを吐き出し、語りたいという思いが強かったので、その後に病気や治療に対する弱音や不安、不満を話し出すことにふたをされてしまう感じがあった。言葉のやりとりをそれ以上深められないという窮屈な思いであった。


「毎朝、夫婦で祈っています」。
「昨日、たまたま病院の近くを通ったとき、車を止め、病院の方を向いて祈りました」。
私のために、リアルに心配してくれ、お祈りいただいているのが分かる言葉かけもいただいた。これらは理屈抜きに心に染みた。慰められる言葉であった。確定診断以降、人に祈られている心強さを感じるようになった。


このように、私の入院生活では、窓の風景にしろ、同室者との雑談にしろ、ラジオのナイター中継にしろ、ささやかな幸せが待っていてくれた。おそらく前途が暗く険しい状況の時ほど、足下に目を凝らせば、小さくかすかな明かりが見つかるのだろう。しかし、その灯りは、あまりにほのかなために目を凝らさないと見えないのかも知れない。そんな気がした。