クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は良い天気でした。午前中の祈祷会には、多くの人が集い、共に聖書を読み、語り、祈る、うれしい時を過ごしました。一つだけ僕が熱く語ったことがあります。それは「いつも喜んでいなさい」という聖書の教えです。
 この聖書の言葉はかなり誤解されているように思います。日々の生活の中で、いつも喜べることがあるとは限らないから、<いつも喜ぶ>ことはできない、と話す人がいます。それ故この聖書の教えは実行するのがむずかしい、無理な要求だと考えてしまいます。聖歌という讃美歌には「数えてみよ主の恵み」という歌があります。ある人は、できるだけ喜べることを探し出し、いつも喜べるように努力します。でも<これは喜ぶべきことだと考えて喜ぶ>、なんか不自然な気がします。喜びというのは湧いてくるものだと思います。
 <いつも喜んでいなさい>とは、喜べることを数えて生きることとは違うのではないかと僕は考えています。僕は、喜べることがなくても喜んでいます。つまり喜べる<こと>を喜ぶのではなく、僕はいつも喜んでいる状態にいます。
 たとえば、妻が自分に何かをしてくれたから喜ぶというのではなく、妻が共にいてくれることを喜ぶのです。妻が共にいる、妻と共に生きている、それが喜びとなります。妻との間に何かが起きたから、何かがあったから喜ぶというのではありません。このように共にあることを喜ぶ、それが夫婦になるということではないでしょうか。
 このようにたとえを語りながら、聖書が<いつも喜んでいなさい>とは、神さまが共にいてくださることを信じ、共にいてくださる神を喜ぶということです。信仰とは神さまとの交わり、神さまと共にあることを喜ぶ、それが<いつも喜んでいなさい>ということです、と話しました。


↑いつも水を汲むところ。
金沢市内は雪はありませんが、郊外に出ると雪国だと感じます。