クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの歩む道

 クリスチャンの歩む道に一本の芯が通っているとしたらそれは何でしょうか。あるいは救われて生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストに似た者となることを目指すことではないでしょうか。

 神さまは、私たちと共にいてくださり、私たちの人生を導いてくださいます。それは、わたしの願い通りになるように人生を導かれるのではなく、私たちがキリストに似た者となるように神さまは私たちの人生を導かれるのではないかと思います。

 キリストに似た者になるには、神さまからの救いの恵みが必要です。救いの恵みを受け取り、聖霊の助けを受けながら、罪に勝利していく歩みとなります。それを聖化と呼ぶ人がいます。聖書は聖なる者になりなさいと語ります。コロサイの信徒への手紙で心に残った言葉があります。

3:12
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 この「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は神さまの性質であり、イエス様の性質です。それ故、これらを身につけることは聖なる者となることであり、キリストに似た者となることです。これらの性質は人間関係の中で、つまり日々の生活の中で試され、身につけるものです。コロサイ書の続きを読みます。

3:13~14
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

 人の罪を忍耐し、悔い改めを待つのは神さまであり、人の罪を赦すのも神さまです。そしてイエス様は罪を贖(あがなう)うための供え物となられ、十字架の上で亡くなりました。それは私たちに対する愛であり、私たちの罪を赦すためでした。

 私たちが愛を身につけ、愛に生きるのは、私たちが神さまの子としてふさわしく生きることです。主であるイエス様に似た者となることです。私たちがイエス様に似た者となるために日々の生活があり、神さまの導きがあります。

 クリスチャンの歩む道には一本の芯が通っている。このことを最近強く思わされます。

 

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